削除された内容 追加された内容
Addbot (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 2 件をウィキデータ上の d:q4060271 に転記
編集の要約なし
14行目:
[[鎌倉時代]]に入ってからもこうした状況に大きな変化はなく、[[13世紀]]後半の[[文永]]年間([[1264年]]-[[1275年]])まで、[[本所]](荘園領主)側から見て外部からの侵入者・侵略者を悪党と呼ぶ傾向が続いた。悪党紛争の実態は、本所一円地同士または本所一円地と[[地頭]]層との所領紛争であり、一方の本所から見た悪党とは、その紛争相手たる本所一円地の領主だったのである。
 
12世紀から本所は悪党活動に悩まされてきたが、悪党は他領へ逃亡するなど、本所による追捕から巧みに逃れていた。本所はしばしば幕府へ悪党追捕を要請していたが、本所同士の紛争は本来、朝廷の管轄であるとして、幕府は悪党追捕に消極的だった。13世紀前半に幕府が制定した[[御成敗式目]]第32条は、盗賊・悪党の所領内隠匿を罪科と定めているが、幕府には積極的に悪党を鎮圧する姿勢は特に見られなかったのである。言葉を変えれば、[[在地領主]]層どうし、在地領主と荘園領主の紛争解決機関として幕府が存在したが、その幕府の管轄から外れた所に悪党が存在したのである。

しかし、[[正嘉]]年間([[1257年]]-[[1258年]])に入り、飢饉の深刻化による悪党活動の激化を受けて、幕府は悪党を夜討・強盗・山賊・海賊と同等視することに決め(正嘉2年、鎌倉幕府追加法320条<ref>『鎌倉遺文』8281号。</ref>)、その鎮圧にようやく乗り出した。
 
== 変化の背景 ==
その一方で、13世紀半ば頃から中世社会の大規模な変動が始まっていた。12世紀末以来、[[武士]]階層を基盤とする[[鎌倉幕府]]は、数度の戦乱を通じて所領を基盤たる武士階在地領主層に再配分し、[[武士団御家人]]の持つ自己増殖欲求に応えてきたが、[[宝治]]元年([[1247年]])の[[宝治合戦]]により[[得宗専制]]が完成して政治的安定が実現すると、所領再配分の機会となる戦乱の発生自体が見られなくなった。ここに至り、[[惣領]]・[[庶子]]への分割相続により自己増殖を繰り返してきた武士団御家人は分割すべき所領を得る機会を失い、惣領のみに所領を継承させる単独相続へと移行していった。
 
単独相続を契機として、惣領は諸方に点在する所領の集約化と在地での所領経営を進めていった。この過程で、庶子を中心とする武士御家人階層の没落が発生するとともに、本所(荘園領主)と在地武士領主との所領紛争が先鋭化していったのである。
 
荘園支配の内部に目を向けると、武士在地領主による侵略を防ぐために本所は荘園支配の強化に乗り出していたが、在地で荘園支配の実務にあたる荘官(彼らも在地領主層の一員である)は自らの経営権を確立しようとしていた。ここに本所・荘官間の対立を惹起する条件が出揃っていたが、当時、急速に進展していた貨幣経済・流通経済の社会への浸透が両者の対立を激化させていった。
 
以上に見られる武士階御家人層内部もしくは荘園支配内部における諸矛盾は中世社会の流動化へとつながっていき、13世紀後半からの悪党活動の活発化をもたらした。さらに同時期の[[元寇]]もこれらの諸矛盾をさらに増大させ、悪党活動の活発化を促したのである。
 
== 展開 ==
外部から荘園支配に侵入する悪党のほか、[[蝦夷]]や[[海賊]]的活動を行う[[海民]]なども悪党と呼ばれたが、これは支配体系外部の人々を悪党とみなす観念に基づいている。諸国を旅する[[芸能民]]や[[遊行]]僧などが悪党的性格を持つとされていたのも同様の理由からだと考えられている。蝦夷、海民、芸能民、遊行僧らはいずれも荘園公領制的な支配体系の外部に生きる漂泊的な人々であり、支配外部にいることを示す奇抜な服装、すなわち異形の者が多かった。[[網野善彦]]は、これらの「悪党」が13世紀半ばから急速な成長を見せた流通経済・資本経済の担い手であり、中世社会の新たな段階を切り開いた主体の一つと説いた<ref>網野、ページ数不明。</ref>。
 
支配体系外部からの侵略者のみを悪党と呼ぶ状況に変化が生じたのは[[弘安]]年間([[1278年]]-[[1288年]])のことである。この時期には荘園支配内部の対立関係がついに顕在化し、本所に対する荘官(=[[在地領主]])層の抵抗活動が抑えられなくなり、本所と対立した荘官・在地領主層は本所から悪党と呼ばれ始め、本所との所領紛争を展開していった。武士御家人階層に目を向けても、単独相続などにより所領を失った無足御家人が旧領に残留し、新地頭の支配を妨害して悪党と呼ばれる事例が発生していた。これらの状況は、内部の者も「悪党」として扱うことを示しており、観念の非常に大きな変化の現れであった。
 
この段階において、本所と対立した荘官層には、上に挙げた漂泊的な悪党も含まれていたと考えられている。彼らの中には、各地を往来しながら交易にたずさわり、流通経済の担い手として資本を蓄積し[[有徳人]]と呼ばれる者もいた。そうした有徳人が経済力を背景として[[荘官]]に補任され、所領経営に乗り出す例もあったのである。また、在地の荘官と対立した本所は、荘官に頼らず、独自に[[年貢]]物資を運搬する流通経路を確保する必要に迫られていたが、ここで年貢物資流通を担ったのが漂泊的な悪党なのであった。