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1894年に[[熊本県]][[熊本市]]に生まれる。父の宗英は医師で、村医をしていた[[対馬]]で育った<ref name="ningen">上記外部リンク記載の国崎の自筆履歴書による。</ref>。13歳で単身、姉の嫁ぎ先である[[埼玉県]][[川越町 (埼玉県)|川越町]](現・[[川越市]])の田中家に移り寄宿して川越高等小学校、川越中学校(現・[[埼玉県立川越高等学校]])を卒業。さらに[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]第3部(英語組)を卒業。一高では常に3番以内の成績だったという<ref name="ningen"/>。1919年12月に[[東京大学|東京帝国大学]]医学部を卒業。国崎がソ連時代に記述した履歴書によれば、この間の学資は弁護士をしていた義兄(姉の夫)の援助を受けたという<ref name="ningen"/>。卒業後は東京帝大附属伝染病研究所(現・[[東京大学医科学研究所]])に入所。1920年に技手に任じられる。1921年12月、[[近衛歩兵第3連隊]]に1年志願兵として入隊。軍医少尉として[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の軍務についた<ref name="ningen"/>。1924年3月に軍務を終えて伝染病研究所に復帰。[[1924年]]に医学部助教授となり、翌年衛生学教室に移る。東大本学に移った後に[[新人会]]に出入りし、政治研究会に入会した。国崎は東大の学生時代から社会科学へ興味を抱いていたが、社会主義に関心を持つ学生との接触で、実践活動に踏み出したとのちに述べている<ref>ドイツ時代に記述した自筆履歴書(上記外部リンク参照)による。</ref>。[[厚生省]][[事務次官]]の[[曾田長宗]]や[[国立感染症研究所|国立予防衛生研究所]]所長の[[小宮義孝]]と医学部時代に親交があった。
 
[[1926年]]、文部省から社会衛生学研究を目的としてドイツに派遣される<ref name="kato">[http://members.jcom.home.ne.jp/072286711/Moscow.html 旧ソ連日本人粛清犠牲者・候補者一覧] ([[加藤哲郎 (学者)]]のウェブサイト)</ref>。1928年7月に[[ドイツ共産党]]に入党し、1929年にベルリンに滞在している日本人シンパ([[千田是也]]ら)とともに[[ドイツ共産党日本語部]]を結成し、その責任者となる。初代社会衛生学講座教授の座を約束されていたが、同年5月に東京帝大を依願免官<ref name="kato"/>。この経緯について[[長与又郎]]や[[林春雄]]からの帰国の説得を拒否したという説もあったが、国崎は自筆の履歴書で「免官を強要せらる」「大学から追放された」と記している。研究者としての職を離れた国崎は、ベルリンで「反帝グループ」を組織した。
 
[[1932年]]に[[片山潜]]の勧めを受けてソビエト連邦に移住し、翌年には[[東方勤労者共産大学]]の大学院に学ぶ<ref name="kato"/>。卒業後は外国労働者出版所の日本語部門に勤務。モスクワで日本人の社会主義運動関係者を支援し、[[日本共産党]]関係の活動にも従事した。しかし、モスクワの日本共産党代表である[[山本懸蔵]]は、国崎を「日本のスパイと結びついている」としてソ連当局に密告する。国崎は外国労働者出版所の役職を解かれ、[[内務人民委員部]](NKVD)の監視下に置かれた<ref name="kato"/>。大粛清のさなかの[[1937年]]8月に「日本のスパイ」として逮捕され、同年12月10日に銃殺刑に処された。ソ連は[[スターリン批判]]後の1959年に国崎の名誉を回復した<ref name="kato"/>。
 
国崎にはドイツ人の妻と娘がいたが、二人は国崎の逮捕後にドイツに強制送還される。彼女たちは消息不明となったが、戦争の時代を生き抜き、1974年になって西ベルリンに在住していたことが[[鈴木東民]]によって確認された(妻は1980年死去)。
 
== 関連文献 ==