「渋川尹繁」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[長享]]元年([[1487年]])、兄の[[渋川万寿丸|万寿丸]](享年20)が[[筑前国|筑前]][[亀尾城]]で家臣に裏切られて殺害されると渋川家当主となる(同時に[[九州探題]]をも継いだとされるが、こちらについては刀祢王丸(尹繁)が[[元服]]するまで一門の[[渋川政教]](まさのり)が代行していたとする説もある)
 
長享3年([[1489年]])[[少弐政資]]の嫡男・[[少弐高経|高経]]によって肥前守護所である[[肥前国|肥前]]綾部館を攻撃され、[[筑後国|筑後]][[犬塚城]]へ追われる。しかし、[[延徳]]3年([[1491年]])には高経の岳父[[大友政親]]によって犬塚城をも追われ、肥前[[勝ノ尾城]]へ移るなど渋川氏は滅亡寸前まで追い込まれた。この苦難の中で渋川氏が頼りとしたのは、西国の雄[[大内氏]]であった。
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[[明応]]5年([[1496年]])肥前守護を名乗り翌明応6年([[1497年]])には[[大内義興]]の協力により政資・高経親子を自刃に追い込み、渋川氏は延命することができた。
 
明応9年([[1500年]])、義興によって大内氏へ身を寄せていた前[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙|足利義尹]](のちの義稙)に拝謁し、その[[偏諱]]を与えられて'''尹繁'''と名乗るとともに、義尹より正式に[[九州探題]]にも任じられた。その後[[肥前]][[養父郡]]綾部の肥前守護所へ再び入る。
 
しかし、[[永正]]元年([[1504年]])、少弐政資の三男[[少弐資元|資元]]によって守護館およびその詰城であった[[綾部城]]・[[白虎山城]]を追われ九州探題職を子の義長に譲ったとされる。その後の動向は不明な点が多いが、後に[[少弐氏]]に通じた為、[[天文 (日本)|天文]]3年([[1534年]])に大内軍によって綾部館を攻められ自害したともいう。