「足利満隆」の版間の差分

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| 死没 = [[応永]]24年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]([[1417年]][[1月27日]])
| 改名 =
| 別名 = 満高(別表記)<!--[http://www.geocities.jp/kawabemasatake/koga.html]より。-->
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
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| 氏族 = [[足利氏]]
| 父母 = 父:[[足利氏満]]
| 兄弟 = [[足利満兼|満兼]]、[[足利満直|満直]]、'''満隆'''、[[足利満貞|満貞]]、[[足利満季|満季]]<!--[http://www.geocities.jp/kawabemasatake/koga.html]より。-->
| 妻 =
| 子 = [[足利満康|満康]]<!--[http://www.geocities.jp/kawabemasatake/koga.html]より。子に満政がいる。--><br>養子:''[[足利持仲]]'' (甥(兄・満兼の子))
| 特記事項 =
}}
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ところが、持氏が自ら政務を執り始め、氏憲が失脚すると、自らの立場に危機感を抱いた満隆は持仲や氏憲(禅秀)とともに持氏の排除を計画、応永23年([[1416年]])に鎌倉において挙兵した([[上杉禅秀の乱]])。一時は持氏を[[鎌倉]]から[[駿河国|駿河]]に追い出し鎌倉を制圧して自ら鎌倉公方を称するが、[[京都]]の将軍・足利義持はこれを認めず、義持の命を受けた[[今川範政]]・[[上杉憲基]]らに攻められ[[鶴岡八幡宮]]別当坊(鎌倉雪ノ下)で禅秀・持仲達とともに自殺した。
 
満隆には持仲の他に、実子として満康(みつやす)がいたとされ、満隆死後は満康、満政(みつまさ)と続いたとされる。<!--[http://www.geocities.jp/kawabemasatake/koga.html]より。-->
 
== 参考文献 ==