「サーサーン朝」の版間の差分

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[[Image:Bas relief nagsh-e-rostam al.jpg|thumb|280px|right|降服する[[ウァレリアヌス]]帝らと騎乗のシャープール1世。[[ナグシェ・ロスタム]]の磨崖像より]]
以後サーサーン朝とローマ諸王朝([[東ローマ帝国|東ローマ諸王朝]])はサーサーン朝が滅亡するまで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者[[シャープール1世]]は、[[セウェルス朝]]との戦争で戦果を挙げた。[[244年]]、[[歴史的シリア|シリア地方]]の安全保障のためにサーサーン朝が占領していた{{仮リンク|ヌーサイビン|en|Nusaybin|label=ニシビス}}などの都市を奪回すべく[[ゴルディアヌス3世]]がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世は{{仮リンク|マッの戦い|en|Battle of Misiche|label=マッシナの戦い}}でゴルディアヌス3世を戦死させた。そして、新皇帝となった[[フィリップス・アラブス|フィリップス]]との和平において莫大な賠償金を獲得した。後に[[ヴァレリアヌス]]が再度サーサーン朝と開戦したが、シャープール1世は[[260年]]の[[エデッサの戦い]]でヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は馬上のシャープール1世にひざまずいて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の[[諸王の王]]」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号するようになった。
 
=== 王位継承問題と弱体化 ===