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'''愛新覚羅 胤{{補助漢字フォント|礽}}'''(あいしんかくら いんじょう、[[1674年]] - [[1725年]])は、中国[[清朝]]の皇族。[[康熙帝]]の第2皇子。理密親王。
 
康熙帝皇后の{{仮リンク|孝誠仁皇后|zh|孝誠仁皇后|en|Empress Xiaochengren}}を生母として誕生し、わずか2歳にして[[皇太子]]となる。母方の大叔父に当たる{{仮リンク|索額図|zh|索額圖|en|Songgotu|label=ソンゴト}}<ref>[[ネルチンスク条約]]の締結で知られる重臣で、建国の功臣[[ソニン (清)|ソニン]]の三男。</ref>(索額図、{{lang|zh|索額圖}})が権勢を得ていたこともあり、周囲の期待の下、英才教育を受け成長した。しかし、康煕帝が病気でもその容態を心配せず、また帝位の奪取を謀ったり謀反人を庇護しているなどといった風評から、次第に父帝の信頼を失い、警戒心を持たれていった。[[1703年]]にソンゴトが失脚すると政治的にも後ろ盾を失い、孤立の度を深めていった。
 
[[1708年]]、規範に背き暴虐や淫乱を尽くしているとの罪状により、遂に皇太子の地位を剥奪され投獄される。翌[[1709年]]に一度復権したが、行状が改まらず、更に狂疾の疑いも持たれ、[[1712年]]に再び廃立・幽閉された。それから13年を経た[[1725年]]、獄中にて死去した。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
 
{{DEFAULTSORT:あいしんかくら いんしよう}}