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ソビエトは、[[バルト海]]東岸の[[不凍港]]であるクライペダをヨーロッパ地域最大の漁業地域、[[ソビエト海軍|海軍]]の拠点にした。巨大な[[造船所]]や[[漁港]]が建設され、[[1950年代]]末までに人口は戦前の2倍にふくれあがり、そして[[1989年]]には20万3000人に達した。第二次世界大戦の影響から、ほとんどすべての住民は[[ロシア]]、[[ベラルーシ]]、[[ウクライナ]]そしてリトアニアといった地域から流入していた。はじめは[[ロシア語]]話者が市政を担っていたが、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の死後はリトアニアから他より多く人が集まったため[[リトアニア人]]が最も多い民族となった。とはいえそれでも、リトアニアで人口10万人を超える都市の中ではクライペダが最もロシア語を母国語とする人の割合が大きい。
 
[[1970年代]]まで、クライペダは経済面でのみ重要視され、文化活動や宗教活動は最小限に抑えられ制限されていた。多くの教会は第二次世界大戦中に損害を受け、さらにソビエト占領中に取り壊されており、[[カトリック教会|ローマカトリック教会]]を広めようとした者は逮捕された。その後、文化活動は1970年代から[[1980年代|80年代]]にかけて発展しはじめ、海の祭りなどが催されるようになっていった。
 
[[1990年代]]はじめにリトアニアがソビエト連邦から独立し、[[1991年]]に[[クライペダ大学]]が設立される。今では[[ドイツ語]]と[[リトアニア語]]の2カ国語協会「Hermann-Sudermann-Schule」も作られている。