「富士能通」の版間の差分

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『富士本宮雑記抜抄』<ref>[[元治]]元年([[1864年]])に、公文富士氏に伝わる記録を整理した由緒書</ref>によると、武田氏の今川領国への侵攻([[駿河侵攻]])に際して[[富士氏]]が[[武田氏]]に帰順する際に、武田家家臣である鷹野徳繁の次男である能通に富士姓を与えたという。これにより富士能通を称し、[[天正]]6年([[1578年]])5月29日に公文職に就いたという。
 
能通は[[富士信忠]]の養子となり、また[[富士信通]]の娘との縁組を通すことで富士家一門となった<ref>。幼名は千代丸(富士千代)。別名に宮次郎がある。従五以下、宮内小輔。戒名は法明院殿覺山文圓居士。
前田利久,「戦国大名武田氏の富士大宮攻略と富士氏の動向」『駒澤史学39巻』,1988</ref>。幼名は千代丸(富士千代)。別名に宮次郎がある。従五以下、宮内小輔である。戒名は法明院殿覺山文圓居士。
 
== 参考資料 ==
*前田利久,「戦国大名武田氏の富士大宮攻略と富士氏の動向」『駒澤史学39巻』,1988</ref>。幼名は千代丸(富士千代)。別名に宮次郎がある。従五以下、宮内小輔である。戒名は法明院殿覺山文圓居士。
*丸島和洋「武田氏の領域支配と取次」『戦国大名武田氏の権力構造』思文閣出版、2011年
*[[宮地直一]] 「神職及び社僧」『浅間神社の歴史』[[古今書院]],1929年
 
==脚注・出典==