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[[山口県立柳井高等学校]]を卒業後、[[中央大学硬式野球部|中央大学]]へ進学。高校時代は3年時の1972年に、外野のレギュラーとして全国高校野球選手権大会に出場し、決勝戦まで勝ち進んだ([[大分県立津久見高等学校|津久見高校]]に敗れ、惜しくも優勝は逸している)。大学時代、[[東都大学]]リーグでは通算97試合に出場し、365打数96安打、打率.263、2本塁打、16打点という記録を残している。同リーグのベストナインにも2回、選出された。
 
後、[[河合楽器硬式野球部|河合楽器]]を経てに入社し[[1979年]]から2年連続[[都市対抗野球大会]]出場。また[[1980年]]に日本で開催された[[IBAFワールドカップ]]の日本代表に選出され、銅メダル獲得に貢献している。[[1981年]]ドラフト2位で[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]に入団。
 
即戦力として期待されながら、常時レギュラーには定着できなかったが、外野守備のスペシャリストとして、試合終盤に登場することが多かった。西武黄金時代づくりに貢献。[[1985年]]、[[5月22日]]に[[サイクル安打]]を達成。[[1988年]]限りで現役引退。引退後はスカウトを経て、[[2008年]]から[[2009年]]まで一軍外野守備走塁、一塁ベースコーチを務め[[2010年]]から再びフロント入り。[[2012年]]現在、ライオンズアカデミーの校長を務める。
 
河合楽器時代、[[ピアノ調律師]]の資格を取得している。