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'''長尾 忠政'''(ながお ただまさ、?-[[宝徳]]2年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]([[1450年]][[11月17日]]))は、[[室町時代]]の武将。[[山内上杉家]]家臣でその[[家宰]]を務める。[[長尾忠綱]]の子。兄に[[長尾憲明]]。子に[[長尾景棟|景棟]]・[[長尾良済|良済]]。官途名は修理亮・尾張守。法号は芳伝。
 
[[総社長尾家]]の当主として[[武蔵国]][[守護代]]を務めるとともに、[[応永]]29年([[1422年]])には山内上杉家の[[奉行人]]の1人として[[奉書]]に名前を連ねている。応永32年([[1425年]])に[[鎌倉長尾家]]の[[長尾房景]]の死去に伴って家宰に就任した。
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忠政が家宰を務めていた時期は、[[関東管領]]でもある山内上杉家当主が[[上杉憲実]]・[[上杉清方|清方]]の時代であり、[[永享の乱]]・[[結城合戦]]と山内上杉家の存亡に関わる戦いが続いた。この時期に関東管領を支えた忠政は「文武器量尋常の勇士……凡そ忠功一代武勇の発明、八州の隠れなし」(「長尾正統系図」)、「文武二道に達し、大細事の誉れ、市豎街童までも遍く是を諮詢へ知れて……勿論国政家務の沙汰厳重に執行(った)」(『[[北越軍談]]』)と伝えられる活躍を見せた。[[文安]]元年([[1444年]])に家宰を[[白井長尾家]]の[[長尾景仲]]に譲った<ref>伊藤一美「上野国守護代 長尾景仲について」(初出:『歴史手帖』58号(名著出版、1978年)/所収:黒田基樹 編著黒田編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一巻 長尾景春』(戒光祥出版、2010年)ISBN 978-4-86403-005-2)</ref>が、奉行人としての活動は同5年([[1448年]])まで知られている。
 
宝徳2年(1450年)死去。後は嫡男の景棟が継いだが、一般には景棟あるいは弟の良済の養子として総社長尾家を継いだとされる[[長尾忠景]](景仲の子)が、芳伝(忠政)から[[所領]]を継承した事を主張する書状(「雲頂庵文書」所収長尾忠景書状)を残しており、その内容を信じれば、忠景は文安年間には既に総社長尾家の家督を継いでいたことになる。そのため、景棟・良済兄弟は父の忠政に先だって死去したため、改めて家督継承者として忠景を後継者に迎えたとする説もある<ref>山田邦明「長尾景春と長尾忠景」(初出:『日本歴史』600号(吉川弘文館、1998年)/所収:黒田基樹 編著黒田編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一巻 長尾景春』(戒光祥出版、2010年)ISBN 978-4-86403-005-2)</ref>。
 
== 脚注 ==