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小学時代は、[[福岡県]][[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]]にあるソフトボールチーム[[奈多クラブ]]に所属。
 
中学時代は、[[福岡県]][[古賀市]]の[[ボーイズリーグ]]・[[九州古賀]]に所属。九州では新チーム結成後から勝ち続け公式戦49連勝を達成。春夏の全国大会に出場した。
 
PL学園高校時代は、故障もあって甲子園出場は無かった(同期生に[[前田新悟]]、[[中村順司]]監督の長男[[中村猛安]])。しかし、長身から繰り出されるストレートなど潜在能力の高さを買われ、[[千葉ロッテマリーンズ]]にドラフト6位で入団。
 
===千葉ロッテマリンーズ時代===
[[2002年]]、千葉ロッテ入団は5年間で一度も1軍登板の無いまま、[[2002年]]に戦力外通告を受け退団
[[1997年]]、ドラフト6位で[[千葉ロッテマリーンズ]]に入団。
[[2002年]]、5年間で一度も1軍登板の無いまま戦力外通告。
 
===中日ドラゴンズ 打撃投手時代===
[[2002年]]シーズン終了後、1212球団合同トライアウト受験後、[[中日ドラゴンズ]]が獲得の意思を示すも選手枠に空きがなく[[打撃投手]]として契約。[[2003年]]、シーズン途中に[[山田久志]]監督が解任。同年オフより[[落合博満]]新政権となり選手復帰の話しが消える。[[2005年]]、前年秋季キャンプで肩を痛めたことが原因で退団
[[2003年]]、シーズン途中に[[山田久志]]監督が解任。同年オフより[[落合博満]]新政権となり選手復帰の話しが消える。
[[2005年]]、前年秋季キャンプで肩を痛めたことが原因で退団。
 
===米独立リーグ時代===
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===台湾プロ野球時代===
[[2008年]]、[[台湾]]・[[中華職業棒球大聯盟]]の[[兄弟エレファンツ]]の入団テストに合格し、入団。10勝6敗、防御率2.66という好成績を挙げ、台湾プロ野球のゴールデングラブ賞に当たる『金手套』を獲得した。[[2009年]]は9勝したが、台湾シリーズには出場できず、この年限りで退団となった。
[[2009年]]は9勝したが、台湾シリーズには出場できず、この年限りで退団となった。
 
===メキシコウインターリーグ時代===
[[2010年]]8月より、メキシコのウィンターボールに参加。Chileros de Xalapaに入団、唯一の日本人としてプレー。シーズン途中にGallos de Mendozaに移籍チームのプレーオフ進出に貢献。シーズン終了後、メキシコ、アメリカにてメジャーリーグ数球団のスカウトを迎えトライアウトを実施、好評価を得るも契約には至らなかった。
 
===メキシコ北部リーグ時代===
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===韓国独立球団時代===
[[2012年]]2月、韓国に誕生したばかりの独立球団・[[高陽ワンダーズ]]への入団が決まった(登録名:고바야시)。主に中継ぎ、抑えとして起用されロングリリーフ、連投と中継ぎエースとしてフル回転。チーム最多登板数(28試合)、チーム最多投球回(81回)を達成し球団創設初年度の主軸として活躍。[[2013年]]は元[[広島カープ]]の[[ディオーニ・ソリアーノ]]、[[元横浜ベイスターズ]]の[[ルイス・ゴンザレス]]、元[[サンフランシスコジャイアンツ]]の[[オシリス・マトス]]など先発陣が安定しロングリリーフなどの登板機会は減るも、同年も中継ぎエースとしてチーム最多登板(29試合)、10セーブを挙げた
[[2013年]]は元[[広島カープ]]の[[ディオーニ・ソリアーノ]]、[[元横浜ベイスターズ]]の[[ルイス・ゴンザレス]]、元[[サンフランシスコジャイアンツ]]の[[オシリス・マトス]]など先発陣が安定しロングリリーフなどの登板機会は減るも、同年も中継ぎエースとしてチーム最多登板(29試合)、10セーブを挙げチームの27勝15敗6分けに貢献。
 
 
==プレースタイル==
*140km/h台中盤の速球に2種類のツーシーム、カーブ、フォーク、スライダー、チェンジアップを投げる。最速は94マイル(約151km/h)。
*日本時代は経験不足が否めず結果を出す事ができなかったが米独立リーグで現役復帰すると才能が開花。
*外国人助っ人として6カ国の海外プロリーグを経験し攻撃性溢れる投球を身につける。
*主にツーシームを軸にして早いカウントで打ち取るなど「ボールを動かす」ことに長けた投手である。
 
== 人物 ==
日本、アメリカ、カナダ、台湾、メキシコ、韓国でプレーする中で日本と海外の野球観の違いなどについて学ぶ。プロ野球選手である傍ら「夢を持つこと」、「自分らしく生きることの素晴しさ」などを組織や肩書きに囚われること無く、野球を通じて表現し伝えたいという願いから「ベースボールアーティスト」と称している。その活動の一環としてオフシーズンは期間限定で子どもから大人までを対象にしたベースボールクリニックや、講演会なども開催。2013年10月12日、[[室井昌也]]主催でトークライブを[[博多リバレイン]]([[福岡市]][[博多区]])で開催した(スポンサーとして有限会社エイコージャパン、父・小林儀市が代表取締役社長を務めるダスキン福ほくなどが協賛)
 
プロ野球の合同[[トライアウト]]には[[2002年]](2度)[[2005年]](1度)[[2006年]](2度)[[2007年]](2度)[[2012年]](1度)参加している。
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* '''25''' (2011年)
* '''20''' (2012年 - 2013年 )
 
 
=== 登録名 ===