「武田元繁」の版間の差分

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10月21日、元繁は総勢5,000とされる大軍を率いて有田城を包囲。同時に、[[熊谷元直 (戦国時代)|熊谷元直]]に兵を与えて救援に来る毛利・吉川軍の迎撃に当たらせた。しかし、幸松丸の[[後見役]]であった[[毛利元就]]の用兵により熊谷勢は壊滅、元直も討死した。敗戦の報に激昂した元繁は、翌22日に自ら主力軍を率いて毛利・吉川連合軍を攻撃する。武田軍は概ね優勢に戦を進めるが、少数ながら粘り強く抗戦する毛利・吉川軍を撃ち破るべく、自ら騎乗して又打川を渡ろうとした。元繁を先頭に渡河する武田軍に対して毛利軍が一斉に矢を放ち(流れ矢であるとも言われている)、矢を受けた元繁は又打川で落馬して討ち取られた。元繁を討ったのは、毛利勢の井上光政と伝えられる([[有田中井手の戦い]])。
 
元繁の討死後、安芸武田家は光和が相続した。しかし、この戦いを期に安芸武田氏は徐々に衰退し、数代後に強大化した[[毛利氏]]によって滅亡に追いやられることになる。この戦いは毛利氏、毛利元就にとって中国地方の大勢力となる分水嶺の戦いと言われ、後日、[[西の桶狭間]]と呼称されるようになる。
 
== 脚注 ==