「メクレンブルク=シュヴェリーン」の版間の差分

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[[1436年]]、最後のヴェルレ領主であった[[:de:Wilhelm (Werle)|ヴィルヘルム]]が男子を遺さずに死んだ。また、ヴィルヘルムの娘婿としてその遺領を相続したメクレンブルク=シュタルガルト公[[:de:Ulrich II. (Mecklenburg-Stargard)|ウルリヒ2世]]も男子をもうけないまま[[1471年]]に没した。これにより、メクレンブルク=シュヴェリーン公[[:de:Heinrich IV. (Mecklenburg)|ハインリヒ4世]]がメクレンブルク全域の唯一の支配者となった。
 
[[1520年]]、ハインリヒ4世の孫である[[:de:Heinrich V. (Mecklenburg)|ハインリヒ5世]]と[[アルブレヒト7世 (メクレンブルク=ギュストロウ公)|アルブレヒト7世]]の兄弟は、再び公国を分割相続し、弟のアルブレヒト7世が[[メクレンブルク=ギュストロウ]]公国を創設した。同公国は[[1610年]]、本家筋のメクレンブルク=シュヴェリーン公{{仮リンク|アドルフ・フリードリヒ1世 (メクレンブルク公)|de|Adolf_Friedrich_I._(Mecklenburg)|en|Adolf Frederick I, Duke of Mecklenburg|label=アドルフ・フリードリヒ1世}}の領土となった。[[1621年]]、アドルフ・フリードリヒ1世は弟の{{仮リンク|ヨハン・アルブレヒト2世 (メクレンブルク公)|de|Johann Albrecht II. (Mecklenburg)|en|John Albert II, Duke of Mecklenburg|label=ヨハン・アルブレヒト2世}}に再びギュストロウ公爵領を分与した。公爵兄弟は[[三十年戦争]]でデンマーク王[[クリスチャン4世 (デンマーク王)|クリスチャン4世]]を支持したために、[[1628年]]に皇帝軍の司令官[[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン]]によって廃位された。しかしその3年後の[[1631年]]、[[バルト帝国|スウェーデン帝国]]軍の助けを得て兄弟は復位することが出来た。ヨハン・アルブレヒト2世の息子[[:de:Gustav Adolf (Mecklenburg)|グスタフ・アドルフ]]は[[1695年]]、男子の相続人を残さず亡くなったため、メクレンブルクは[[:de:Friedrich Wilhelm I. (Mecklenburg)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]の下に再統合された。
 
しかしフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の叔父[[アドルフ・フリードリヒ2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ公)|アドルフ・フリードリヒ2世]]は、甥に対してギュストロウの相続権を主張し、激しい領土継承争いを引き起こした。[[1701年]]、両者は同じ[[帝国クライス|ニーダーザクセン・クライス]]に属する[[帝国領邦]]の圧力を受け、相続をめぐる争いに決着をつけた。おおよそ中世のメクレンブルク=シュタルガルト公国の領域に相当する[[メクレンブルク=シュトレーリッツ|メクレンブルク=シュトレーリッツ公国]]が創設され、アドルフ・フリードリヒ2世に分与された。うち続く相続争いと領土分割は公爵たちの支配権を弱め、メクレンブルクは帝国で最も立ち遅れた地域の一つになってしまった。