「畠山義英」の版間の差分
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[[明応]]3年([[1494年]])に8歳で元服。早い元服は父が同族で尾州家([[畠山政長]]を祖とする)の[[畠山尚順]]と対立していて、万が一の場合に備えて行った処置と見られる。明応8年([[1499年]])に父が尚順に敗れて戦死したことにより家督を継承、領国河内から出奔したが、間もなく庇護者の[[細川政元]]が尚順を破ったため河内へ戻った。
最初は政元の傀儡として過ごしていたが、[[永正]]元年([[1504年]])頃から[[赤沢朝経]]と[[薬師寺元一]]の謀反など[[細川氏]]の内訌が起こり激しくなると、義英は政元からの独立を模索し、同年
河内を奪った尚
以後は徴証が知れないが、[[興福寺]][[大乗院]][[門跡]]の日記の大永2年(1522年)[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]条に「畠山濃州他界」という記録があり、大永3年([[1523年]])3月にもう一人の息子([[嫡子]])の義堯が[[観心寺]]に判物を発給していることから大永2年に没した畠山濃州が義英ではないかとされている<ref>大阪府、P309 - P311、弓倉、P41 - P46、P289 - P291、福島、P68 - P71。</ref>。
義英政権では守護奉行所・守護代奉行所が創設され、畠山総州家の領国経営の基盤が整備された。
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