「ミゲル・デ・セルバンテス」の版間の差分

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そして[[1605年]]、マドリードにて『[[ドン・キホーテ|ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ]]』が出版された。『ドン・キホーテ』は出版されるやいなやたちまち大評判となり、同年中に6版が重ねられた。<ref>「スペイン文化事典」p423 川成洋・坂東省次編 丸善 平成23年1月31日発行</ref>『ドン・キホーテ』の成功にもかかわらず、[[版権]]を安く売り渡していたため、生活は良くならなかった。しかし、その後も創作活動は続き、有名なものに『模範小説集』([[1613年]])、『ドン・キホーテ 後編』([[1615年]])、遺作『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』([[1617年]])などを世に送り出した。1616年、69歳でその波瀾に満ちた人生を終えた。
 
[[イギリス]]の[[ウィリアム・シェイクスピア|シェークスピア]]と死亡した日が同じであるとされることが多いが、当時はヨーロッパ大陸とブリテン島とで異なる[[暦]]を使用しており、実際には同じ日ではない。これは、1582年に[[ローマ教皇]]が[[ユリウス暦]]から[[グレゴリウス暦]]へ暦の変更を決定し、大陸の[[カトリック教会|カトリック]]や[[プロテスタント]]の国々が順次変えていったのに対し、当時のイギリスは、カトリック教会の権威が及ばない[[イギリス国教会]]が優勢だったために新しいグレゴリウス暦を受け入れることが遅れたからである。
 
== 影響 ==