「ジョセフ・マッカーシー」の版間の差分

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しかし、その後もマッカーシーを擁護する議員も存在した。上院の譴責決議がなされた年、[[ハーバード大学]]で、ある演説者が「そこいらの大学と違ってハーバードからは[[アルジャー・ヒス]](ソ連のスパイという事が判明)やジョー・マッカーシーのような人物を出していないのが自慢だ」という発言をしたのに対し、マッカーシーと仲の良かったロバート・F・ケネディの兄で、後に大統領となる[[ジョン・F・ケネディ]]は、「偉大なアメリカの愛国者と売国奴の名をよくも一緒くたにできたものだ!」と激怒しマッカーシーを擁護した。なお、民主党の方針でマッカッシーの譴責決議案に賛成票を投じざるをえなかったジョン・F・ケネディは、「かねてから必要とされていた手術を受ける」ことを口実に投票を棄権している。
 
なお、後世に良く言われるように「上院の譴責決議の前にマッカーシーが大衆の人気を失っていた」という報道は事実に反している。マローの番組をはじめとするマッカーシーへのバッシングがピークに達し、上院の譴責決議まであと数ヶ月という時のギャラップ世論調査では、マッカーシーの行動への支持率は50%、不支持率は29%だった。1950年から1954年(マッカーシーの反共運動期間)にかけての同調査では、[[カトリック教会|カトリック]]のマッカッシー支持者が56%、不支持者が29%、[[プロテスタント]]の支持者は45%、不支持者は36%であった。
 
==死去==