「企画院」の版間の差分

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特に素人の軍部よりも予算や法に通じ・駆使する専門家たる官僚の力が強まり、実際の主導権は官僚側にあったとされる。[[岸信介]]と、[[財界]]・[[財閥]]を代表する[[小林一三]]との対立は、小林により岸が商工次官を更迭され、[[1941年]]([[昭和]]16年)の'''[[企画院事件]]'''として[[和田博雄]]([[農林省]]出身)らが[[共産主義者]]として検挙される事件にまでつながる<ref>[[東條内閣]]の誕生により岸は復権し、その後の商工省と企画院の統合によって昭和18年11月1日、[[軍需省]]が設立されると[[次官]]に収まった</ref>。[[1943年]]([[昭和]]18年)の「軍需会社法」により企業の利益追求が事実上否定され、[[1940年]]([[昭和]]15年)[[12月]]に閣議決定された「経済新体制確立要綱」中の「[[資本]]と[[経営]]の分離([[所有と経営の分離]])を推し進め、企業目的を利潤から生産目的に転換すべき」とする政策の中心にいた商工省派遣・[[美濃部洋次]]、陸軍派遣・[[秋永月三]](のち中将)らの念願は達成されたと、評論家・[[谷沢永一]]は書いている<ref>「官僚もういいかげんにせんかい」 谷沢永一 より抜粋</ref> 。
 
単なる法律立案運用解釈のコンサヴァティブ・エンジニアではなくクリエーティブ・エンジニアを目指していたと言われるが<ref>「ドキュメント 平成革新官僚 公僕たちの構造改革」 宮崎哲弥 + 小野展克 より抜粋</ref>、戦後、経済官僚は[[公職追放]]に対してもほぼ生き残り、戦前の強力な統制から一歩引き[[行政指導]]や[[許認可]]制度、[[予算]]手当てや優遇[[税制]](政策減税)、[[補助金]]などを主たるパワーとして、[[大蔵省]]や[[通商産業省|通産省]]または[[経済企画庁]]<ref>[[経済安定本部]]から[[経済審議庁]]を経て設置</ref>を主たる拠点として戦後の国家を担うプロデューサー・エージェントとして稼動した<ref>政治社会学者・[[菊池信輝]]は、[[国家総動員法|国家総動員体制]]以来良くも悪くもこの経済・産業体制は戦後も引き継がれたが、官が主体的に経済を切り回していたというより、むしろ産業界の意向に引きずり回され、本来の「公」がなすべきことが見失われていたという</ref>。
 
陸軍・大蔵・商工各省の影響下にあり、各省は優秀な者らを送り、彼らは所謂「[[革新官僚]]」として、[[日中戦争]]前後の戦時統制計画の立案を担ったが、「[[統制経済]]」の牙城として、初期には、[[吉田茂 (内務官僚) |吉田茂]]、[[奥村喜和男]]、[[松井春生]]らが参画、その後は、初代総裁に[[後藤新平]]を頂いていた[[南満州鉄道]]傘下[[満鉄調査部]]を経由した官僚として、経済将校として鳴らした[[石原莞爾]]と組んだ[[宮崎正義]]、[[佐々木義武]]、[[満州国]]の経済体制造りに関わった者の中からは、[[岸信介]]([[商工省]])、[[椎名悦三郎]]([[商工省]])、[[美濃部洋次]]([[商工省]])、[[毛里英於菟]]([[大蔵省]])、[[星野直樹]]([[大蔵省]])らがいる。他に、[[迫水久常]]([[大蔵省]])、[[植村甲午郎]]([[逓信省]])、[[黒田鴻伍]]([[商工省]])、[[橋井真]]([[商工省]])、[[周東英雄]]([[農林省]])、[[竹本孫一]]([[内閣]])らが、民間からは企画院参与(勅任官)として[[高橋亀吉]]らがいた。更に[[東條英機]]、[[武藤章]]、[[鈴木貞一]]、[[板垣征四郎]]らの軍人の関わりも指摘されている。