「リング禍」の版間の差分

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試合は13時に開始された。マッコイは初回に左耳から血を流し、5回に口を打たれてダウンした時には、何らかの反則を訴えている。7回には唇と首が血で染まっていた。この回、リリーの左を腹に受けてマッコイはダウンし、立ち上がると何らかの反則を訴え、ジャッジは同意。レフェリーもこれを認めた。各ラウンドの詳細な経過を記した ''Life and Battles of Yankee Sullivan'' では「ここで試合は終わるべきだった」とされているが、マッコイ陣営は寛大にもマッコイの反則勝ちを拒否して、試合の続行を要求した。15回にマッコイは鼠径部のあたりを打たれて反則打を訴え、ジャッジは再び同意。この時もマッコイ陣営はアドバンテージは要らないと言って反則勝ちの権利を放棄している<ref name="winch" />。マッコイは15、16回までは優勢だったが<ref name="andrus" /><ref name="gorn" />、その後、形勢は不利になっていく。しかし、リリーが非常に冷静に試合を運ぶ一方で、マッコイはセコンドの制止もないままに入れ込んだ状態で戦い続け、63回を迎えて初めてセコンドから少しセーブするように指示を受けるが、その回もマッコイはラッシングを止めない<ref name="winch" />。70回にはマッコイの両目は黒く腫れ上がって左目は塞がり、唇もひどく腫れ上がり、胸に血が流れ落ち、息も絶え絶えで、構えながらも喉から血の塊を吐き出そうとしていた。76回になると試合はより凄惨なものになり、観客は停止を求めて叫んだが、マッコイは毎回リングに出て行った<ref name="winch" /><ref name="gorn" />。86回には、リリーがほぼ無傷で入場時とほぼ変わらない状態であったのに対し、マッコイの両目は塞がり、鼻は折れて潰れ、鼻からも口からも夥しい血を流していたにも関わらず、両者のセコンドは試合を続行させた。リリーは毎回マッコイからダウンを奪い、マッコイは鼻や口のみならず両目からも血が噴き出すようになっていた<ref name="andrus" />。
 
89回には試合をプロモートしたリリー陣営のヤンキー・サリバンらが、「死ぬまでやらせてどうする? マッコイはもう勝てない」と試合を止めようとしたが、マッコイのセコンドについていたヘンリー・シャンフロイド<!-- Henry Shanfroid -->は「まだ始まったばかりだ」と拒否<ref name="winch" /><ref name="gorn" />。マッコイは自分の血で喉を詰まらせ、塊を吐き出しながら、続行を求めた<ref name="gorn" />。107回には、マッコイは窒息感に苦しむように腫れた舌を突き出して口を開いていた<ref name="winch" />。しかし、80度以上もダウンを奪われながらも、118回が終わるとマッコイはセコンドに「手当てしてくれ。そうすればまだやれる」と言い、次の119回を戦った<ref name="winch" /><ref name="gorn" />。120回が始まろうとする時、マッコイは動くことができず、15分足らずのうちに死亡した<ref name="andrus" /><ref name="advertiser">[http://news.google.com/newspapers?id=YYRBAAAAIBAJ&sjid=uLcMAAAAIBAJ&pg=6766,2809609 For President of the United States, in 1844, Henry Clay: Brutal Exhibition &ndash; Murder.] ''American & Commercial Daily Advertiser'' 1842年9月16日 p. 2 {{En icon}}</ref>。この結果、リリーが勝利<ref name="winch" /><ref name="advertiser" />。検視結果では、血が肺に流れ込んだことによる溺死(窒息死であった<ref name="gorn" />。
 
1791年の ''Delaware Gazette'' 紙などでは、トマス・ダニエルがジェームズ・スミスとのベアナックル・ファイトで命を落としたことが簡単に記されているが<ref>William H. Williams [http://books.google.co.jp/books?id=SGvDdmPnN3IC&pg=PA22&lpg=PA22#v=onepage&q&f=false Slavery and Freedom in Delaware, 1639-1865] 1999年 p. 22</ref>、一般的にはこのリリー対マッコイ戦が、米国における死亡事故の最初の記録とされている<ref name="gorn" /><ref name="collins" /><ref name="kinetics" /><ref name="moriwaki" />。18人の関係者が[[騒乱罪]]や[[過失致死罪]]で逮捕・起訴され<ref name="gorn" />、その後ベアナックル・ファイト、懸賞試合への批判が高まることになった<ref name="moriwaki" />。