「ヨランド・ド・フランス」の版間の差分

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ヨランドは、シャルル突進公と[[スイス]]{{仮リンク|八邦同盟|de|Acht Alte Orte|label=八邦同盟}}との争いに、サヴォイア公国が巻き込まれるのを防げなかった。サヴォイア家は歴史的にスイス諸邦と友好関係にあったが、1470年代初頭には、多くのサヴォイア貴族層が、強大化を続けるブルゴーニュ公国の権勢になびく方が、スイスと渡り合うためにも有利と考えるようになっていた。当時、スイス同盟最強の邦[[ベルン]]がサヴォイア領[[ヴォー州|ヴォー]]地方に進出し、またスイス同盟がサヴォイア領の[[ジュネーヴ]]や[[ヴァレー州|ヴァレー]]地方を占領しているなど、サヴォイア家はスイスとの国境問題で劣勢だったのである。またシャルル突進公は、サヴォイア領[[ピエモンテ州|ピエモンテ]]地方を脅かしていた[[ミラノ公国|ミラノ公]][[ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ|ガレアッツォ・マリーア]]とも同盟関係にあったので、サヴォイア公国はその面でもブルゴーニュ公に頼る方が有利に思われた。ヨランドの宮廷は、親ブルゴーニュ派と親フランス派の間での陰謀や党派争いで大いに乱れた。亡夫の3人の弟、ブレス伯[[フィリッポ2世・ディ・サヴォイア|フィリッポ]]、ジュネーヴ司教ジョヴァンニ・ルイジ、ローモン伯[[ジャック・ド・サヴォワ|ジャック]]もまた、それぞれのフランス王やブルゴーニュ公との縁故から立場が異なり、互いに対立していた。
 
1475年、ヨランドはついにシャルル突進公と同盟を結ぶが、ベルン市の軍勢のヴォー州への侵入も、またブルゴーニュ軍勢のサヴォイア家領での乱暴狼藉や占拠も一向に止まなかった。ルイ11世は妹の反抗に腹を立て、ヨランドを廃してヨランドの義弟の1人ブレス伯フィリッポを摂政に立てようとしたが、失敗した。ブルゴーニュ公との同盟は、ブルゴーニュ領と接する[[フリブール]]やヴァレー地方、またサヴォイア領ヴォー地方および下ヴァレー地方がベルンの軍勢によって掠奪、占領される事件を引き起こした。シャルル突進公は、スイス諸邦とのいわゆる[[ブルゴーニュ戦争]]を戦っていたが、1476年の[[グランソンの戦い]]および{{仮リンク|ムルテンの戦い|en|Battle of Morat}}および[[グランソンの戦い]]に敗北した。サヴォイア軍のヴァレー地方への進撃も失敗し、{{仮リンク|プランタの戦い|en|Battle on the Planta}}でサヴォイア軍が敗北した後、下ヴァレー地方は[[シオン (スイス)|シオン]]司教ヴァルター・スペルザクソ(Walter Supersaxo)によって占拠された。1476年のフリブール条約により、ヨランドはヴォー地方の大部分をベルン市に割譲し、ヴァレー地方およびフリブールの領有権についても放棄した。これはサヴォイア家のスイス西部における権力衰退の端緒となり、1536年までに、スイスにおけるサヴォイア家の影響力はベルン市によって完全に排除されることになる。
 
スイスとの和約締結はシャルル突進公には裏切りと見なされ、突進公は1476年中に家臣の{{仮リンク|オリヴィエ・ド・ラ・マルシュ|en|Olivier de la Marche}}に命じてヨランドを誘拐させ、ブルゴーニュ領内{{仮リンク|ルーヴル=アン=プレーヌ|en|Rouvres-en-Plaine}}の城に幽閉した。ヨランドは数か月後に城を脱出したが、1478年には死去した。義弟のジュネーヴ司教ジョヴァンニ・ルイジが、息子フィリベルトの新しい後見人となった。