「ダヌィーロ・ロマーノヴィチ」の版間の差分

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1240年にモンゴル人はキエフ大公国を滅亡させ([[モンゴルのルーシ侵攻]])、ダヌィーロの領地を荒らした。それに乗じた国内外の反ダヌィーロ勢力が立ち上がり、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国を分裂させようとした。しかし[[1245年]]、{{仮リンク|ヤロスワフの戦い|uk|Битва під Ярославом}}においてダヌィーロの軍勢はハンガリー・[[ポーランド王国|ポーランド]]・ハールィチ公国の連合軍に大勝利し、国内で自らの政権を安定させ、ヨーロッパ諸国に力を見せ付けた。一方で都市[[リヴィウ]]と[[ヘウム]]の建設も進めた。
 
[[1246年]]、モンゴル帝国の[[ジョチ・ウルス]]はダヌィーロの大公国を従属させたが、ダヌィーロは独立を取り戻すためにヨーロッパ諸国に軍事支援を求めた。彼はハンガリー・ポーランド・[[オーストリア]]・[[ボヘミア]]・ドイツ騎士団と同盟を結び、[[1253年]]にさらに[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]]から王の冠を受け、[[1256年]]に[[バトゥ]]が死去すると、独立を宣言し、バトゥの部下である{{仮リンク|クレムサ|uk|Куремса|ru|Куремса}}が率いるモンゴル政権、この時ハーンが不在だった、と戦う道を選んだ。しかし、教皇は反モンゴル十字軍を呼びかけたにも拘らず、応じる国王や大公などいなかったので、ダヌィーロは自らの力で戦わざるを得なかった。ダヌィーロは最初はいくつかの勝利をおさめたが([[1257年]]に[[ベルケ]]が即位)、[[1259年]]に[[ノガイ]]と[[{{仮リンク|ブルンダイ]]|ru|Бурундай|en|Boroldai}}率いるモンゴル軍に降伏した。[[1260年]]に再びジョチ・ウルスの支配から離脱し、小規模の合戦を繰り返しながら、1264年に病死した。
 
== 子女 ==