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'''伊東七十郎重孝''' (いとうしちじゅうろうしげたか、[[寛永]]10年([[1633年]])7月 - [[寛文]]8年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]([[1668年]][[6月7日]])は、仙台藩士伊東理蔵重村の二男。仙台に生まれる。伊東氏は工藤祐経の二男祐長より出。伊達政宗に仕えた祐長14世伊東肥前重信の孫。
 
 七十郎の学問は深く、儒学を内藤閑斎(以貫)、京都にて陽明学を熊沢番山、江戸にて兵学を小櫃与五右衛門と山鹿素行に学ぶ。一方、深草にて元政上人の徒然草の講義を聞き、文学にも通じていた。幕府老中板倉内膳正重矩の家老池田新兵衛とは同門の学友、その縁で七十郎は重矩に招かれて軍学を講じ、仕官をすすめられたこともある。
 
寛文事件(伊達騒動)の忠臣、烈士。身を挺して伊達家安泰の爲に殉じた忠義の士。七十郎は伊達家のためには巨魁伊達兵部宗勝を討たねばならぬと伊東采女重門と謀ったが、事前に計画が顕われて捕えられ、寛文8年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]誓願寺河原にて処刑された。一族は、御預け、切腹、流罪、追放となる。
 
伊東七十郎の遺書
 七十郎は入牢の日より絶食し処刑の日が近づいたのを知るや「人心惟危、道心惟微、惟精惟一、誠厥執中。古語云、身をば危すべし、志をば奪べからず。又云、殺べくして、恥しめべからず。又云、内に省てやましからず、是予が志也。 食ヲ断テ、卅三日目ニ書之也 罪人重孝」と書いて小人万右衛門に与えた。
 
第一の「人心惟危」云云というのは書経(大禹謨編)にある「堯舜以来伝わった聖人の心法」として帝王の心得を説いた有名な章句であり、第ニは論語の「匹夫不点可奪志」の言、第三は礼記に「儒有可殺而不可辱也」とあり、第四は論語に「内省不疚、何憂何懼」の言を採ったものである。七十郎が平素愛用した文句であったと思われ、これを書いて四日後の4月28日、死罪を申し渡された。
 
伊東七十郎の最期
遺骸は阿弥陀寺(仙台市若林区)に葬られたと伝えられるが、のちに伊東家の菩提所である栽松院(仙台市若林区)に伊東七十郎重孝の墓として祀られている。また、当時の人々が七十郎の供養のため建立した「縛り地蔵尊」(仙台市青葉区米ヶ袋)は、万病平癒の功徳があるといわれ、今でも信心している人が多い。
 七十郎は処刑されるとき「われ報告の忠を抱いて、罪なくして死すとも、三年のうちに癘鬼となって必ず兵部殿を亡すべし」といって壮烈な最期をとげた。
 
遺骸は阿弥陀寺(仙台市若林区)に葬られたと伝えられるが、のちに伊東家の菩提所である栽松院(仙台市若林区)に伊東七十郎重孝の墓として祀られている。また、当時の人々が七十郎の供養のため建立した「縛り地蔵尊」(仙台市青葉区米ヶ袋)は、万病平癒の功徳があるといわれ、今でも信心している人が多い。さらに昭和5年(1930年)、桃生郡北村(石巻市北村)に「重孝神社」が創建されその霊が祀られている
[[寛文]]11年([[1671年]])2月28日、涌谷領主[[伊達安芸宗重]]の上訴により伊達兵部一派の藩政専断による宿弊、不正、悪政が明るみに出た。そして、伊達兵部宗勝や[[原田甲斐宗輔]]たち兵部一派が処分され伊達家の安泰に及び、伊東七十郎重孝の忠烈が称えられ、延宝3年(1675年)伊達綱村公の代に伊東家は旧禄に復し再興された。
 
七十郎死して三年後、[[寛文]]11年([[1671年]])2月28日、涌谷領主[[伊達安芸宗重]]の上訴により伊達兵部一派の藩政専断による宿弊、不正、悪政が明るみに出た。そして、伊達兵部宗勝や[[原田甲斐宗輔]]たち兵部一派が処分され伊達家の安泰に及び、伊東七十郎重孝の忠烈が称えられ、延宝3年(1675年)伊達綱村公の御世に伊東家は旧禄に復し再興された。