「シドニー=ガブリエル・コレット」の版間の差分

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[[ブルゴーニュ]]地方[[ヨンヌ県]]サン=ソーヴル=アン=ピュイゼー出身。父親はジュール=ジョゼフ・コレット、母親は愛称シドことアデールという。[[1893年]]に15歳年長のアンリ・ゴーティエ=ヴィラールと結婚。処女出版された『クロディーヌ』シリーズは、夫の筆名'''ヴィリー ''' (Willy) 名義で世に送り出された(夫婦合作とも言われる)。
 
[[1906年]]に浮気な[[バイセクシャル]]の夫と離婚し、[[パリ]]の[[ミュージック・ホール]]で[[パントマイム]]や踊り子として活躍を始める。この頃の愛人は、[[ナポレオン3世]]の血縁者を名乗っていたベルブーフ侯爵夫人ミッシーであり、ニ人は舞台上で共演することもあった。[[1912年]]に[[{{仮リンク|ル・マタン (フランス)|fr|Le Matin (France)|en|Le Matin (France)|label=ル・マタン]]}}紙主筆のアンリ・ド・ジュヴネルと再婚。ベル=ガズー・コレット=ド=ジュヴネルをもうけた。娘の回想によると、コレットは子供を望んでおらず、赤ん坊をイギリス人の乳母に任せて自分は家を出たきりだったという。
 
[[1914年]]にパリ・[[パリ国立オペラ|オペラ座]]から、新作[[バレエ]]の台本を委嘱され、「わが子のためのディヴェルティスマン(娯楽音楽)」と題したプランを練り始め、[[モーリス・ラヴェル]]に音楽担当を呼びかけるが、ラヴェルはこれを[[オペラ]]として膨らませることを提案し、コレットはそれを受け容れた。こうして完成された台本が『[[子供と魔法]]』であり、ラヴェルは[[第一次世界大戦]]後に、数年がかりで1幕オペラにまとめあげ、[[1925年]][[3月21日]]の初演を迎えた。