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| 死没 = [[天正]]4年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]([[1576年]][[8月30日]])
| 改名 = 伊勢寿丸→広綱
| 別名 = 弥三郎
| 諡号 =
| 戒名 = 花光院以天長清
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'''宇都宮 広綱'''(うつのみや ひろつな、[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]]) - [[天正]]4年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]([[1576年]][[8月30日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[下野国]]の[[大名]]。[[宇都宮氏]]21代当主。[[宇都宮尚綱]]の子。母は[[結城政朝]]の娘。幼名は伊勢寿丸。正室は[[南呂院]]。子に[[宇都宮国綱]]・[[結城朝勝]]・[[芳賀高武]]。
 
== 生涯 ==
天文18年([[1549年]])、父・尚綱が[[那須高資]]との戦いで敗死すると、宿老・[[壬生綱房]]が[[宇都宮城]]を乗っ取ってしまう。綱房は[[芳賀高経]]の子[[芳賀高照]]を傀儡として利用するために当主として迎え入れ、[[下野国|下野]]各地を侵攻し、統一に乗り出す。広綱は5歳という幼少であったため、家臣の[[芳賀高定]]に守られて[[宇都宮城]]を落ち延び、[[真岡城]]にて高定の補佐を受けて育つ。2年後の天文20年([[1551年]])、父の仇である高資を殺害し、[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])には、反抗的な家臣[[芳賀高照]]を高定が暗殺し、宇都宮城を占領していた[[壬生綱房]]が急死したことで、弘治3年([[1557年]])、宇都宮城は広綱の手に戻った。
=== 誕生 ===
[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])に誕生。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[下野国]]は伊勢信仰が流行しており、その影響を強く受けていたためか、幼名は伊勢寿丸である。
=== 宇都宮氏滅亡の危機 ===
天文18年([[1549年]])、父・尚綱が[[喜連川五月女坂の戦い]]で敗死すると、宿老・[[壬生綱房]]が野心を剥き出しにし、[[宇都宮城]]を乗っ取ってしまう。綱房は[[芳賀高経]]の子[[芳賀高照]]を傀儡として利用するために当主として迎え入れ、[[塩谷氏]]などの宇都宮重臣らを従え、広綱に敵対する。そして[[下野国|下野]]各地を侵攻し、統一に乗り出す。[[大永の内訌]]から始まった[[宇都宮氏]]の衰退はピークを迎え、滅亡の危機に晒された。
 
当時、広綱は5歳という幼少であったため、家臣の[[芳賀高定]]に守られて[[宇都宮城]]を落ち延び、[[真岡城]]にて高定の補佐を受けて育つ。2年後の天文20年([[1551年]])、[[芳賀高定]]が謀略を駆使して父の仇である[[那須高資]]を殺害。[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])には、高定が反抗的な家臣[[芳賀高照]]を[[真岡城]]へ誘い出して暗殺。さらに同年、宇都宮城を占領していた[[壬生綱房]]が急死したが、綱房の嫡子の[[壬生綱雄]]が新たに宇都宮城主になっている。この間も壬生氏による激しい侵攻が続いており、[[祖母井城]]、[[八ツ木城]]などが落とされている。その後、高定の尽力によって勢力を徐々に盛り返し、外交手腕によって[[北条氏康]]を味方につけ、弘治3年([[1557年]])、氏康の命で広綱・高定を支援するために[[佐竹義昭]]が5000騎の兵を連れて下野に出陣し、[[飛山城]]に在陣したという。[[芳賀高定]]の尽力によって[[宇都宮城]]は広綱の手に戻り、滅亡を回避することができた。
その後は[[上杉謙信]]と同盟を結んで関東制覇を目指す[[後北条氏]]やその北条氏よりの諸大名と徹底して対立する。永禄7年([[1564年]])には上杉謙信、佐竹義重と共に北条方の[[小田城]]主・[[小田氏治]]を[[山王堂の戦い|小田城の戦い]]で敗走させている。一時的に北条氏に屈したこともあったが、[[佐竹氏]]らと同盟を結んで、独立を保持した。
 
[[永禄]]元年([[1558年]])には[[越後国|越後]][[上杉謙信|上杉]]勢が下野に侵攻してきたが、家臣の[[多功長朝]]の奮闘によって撃退に成功している。<ref>『宇都宮興廃記』</ref>
しかし[[天正]]4年([[1576年]])8月7日、病のために32歳で死去した。晩年はずっと病床にあったといい、その期間は死が伏せられていた可能性もある。
=== 上杉謙信との同盟 ===
その後、家臣の芳賀高定の外交手腕によって[[佐竹義昭]]の娘[[南呂院]]を妻に迎えており、強固な同盟関係が築かれた。広綱は[[上杉謙信]]と同盟を結んで関東制覇を目指す[[後北条氏]]やその北条氏よりの諸大名と徹底して対立する。永禄7年([[1564年]])には上杉謙信、[[佐竹義重]]と共に北条方の[[小田城]]主・[[小田氏治]]を[[山王堂の戦い|小田城の戦い]]で敗走させている。一時的に北条氏に屈したこともあったが、[[佐竹氏]]らと同盟を結んで、独立を保持した
=== 皆川俊宗の乱 ===
広綱は生来病弱であり、[[元亀]]3年には花押も押せないほどにまで病状が悪化していた。[[宇都宮氏]]の重臣[[皆川俊宗]]はこの状況を利用して宇都宮城乗っ取りを計画する。[[武田信玄]]、[[北条氏政]]による[[甲相同盟]]の締結によって、下野南部が北条、武田の二大勢力によって脅威に晒されることになったことが俊宗による宇都宮城乗っ取りが起こった主な原因である。
 
[[元亀]]3年([[1572年]])[[1月14日]]の夜、[[上杉謙信]]との外交を任されていた宇都宮氏の筆頭重臣[[岡本宗慶]]が俊宗によって暗殺され、その翌日、[[宇都宮城]]は[[皆川氏]]によって占拠された。占拠されてから約1年間の間は皆川俊宗が宇都宮氏の主導権を握っており、俊宗は徐々に[[後北条氏]]寄りの立場を取るようになる。このために一時的だが、[[宇都宮氏]]は北条氏に屈した形となった。
 
[[元亀]]4年([[1573年]])には同盟国の[[佐竹義重]]らとともに、皆川氏討伐を行っている。
 
=== 晩年 ===
しかし[[天正]]4年([[1576年]])8月7日、病のために32歳で死去した。晩年はずっと病床にあったといい、その期間は死が伏せられていた可能性もある。
 
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|title=下野・宇都宮一族|author=[[七宮涬三]]|date=2006-09|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=4404034032}}
* 江田郁夫 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-043-4
 
{{下野宇都宮氏歴代当主|1549 - 1576}}