「エレオノーレ・フォン・エスターライヒ (1534-1594)」の版間の差分

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== 生涯 ==
フェルディナント1世とその妻で[[ハンガリー]]王・[[ボヘミア]]王[[ウラースロー2世]]の娘[[アンナ・ヤギエロ|アンナ]]の間の第8子、六女として生まれた。他の姉妹たちと同様に熱心な[[カトリック教会|カトリック]]信徒として育てられ、[[デンマーク]]王[[クリスチャン3世 (デンマーク王)|クリスチャン3世]]や[[エルネスティン家|ザクセン]]公[[ヨハン・フリードリヒ2世 (ザクセン公)|ヨハン・フリードリヒ2世]]から求婚されたものの、いずれも相手が[[ルーテル教会|福音派]]信徒だということを理由に拒絶した。
 
その後、26歳になるまで独身のままだったが、父に懇願されてマントヴァ公[[グリエルモ・ゴンザーガ|グリエルモ]]と結婚することに同意し、婚礼は1561年4月26日に[[マントヴァ]]で行われた。[[ゴンザーガ家]]は皇帝家との縁組を深めることで、[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート侯領]]の支配を安定させようと狙っていた。これに先立って、すぐ上の姉[[カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1533-1572)|カタリーナ]]がグリエルモの兄[[フランチェスコ3世・ゴンザーガ|フランチェスコ3世]]に嫁いだが、すぐに死別している。夫は脊柱湾曲症のため容姿は見劣りしたが、夫婦仲は比較的良好だった<ref>Edith Schlocker: Schloss Ambras: Des Kaisers unglückliche Töchter. Die Presse, 25. Juli 2010, abgerufen am 26. Juli 2010 (Die Ausstellung "Nozze italiane" illustriert die Heiratspolitik der Habsburger. Im Zentrum stehen drei nach Italien verheiratete Töchter Ferdinands I.).</ref>。