「櫛橋光」の版間の差分

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[[織田信長]]の才能を高く評価していた夫・孝高は、主君の小寺政職に臣従を進言し、[[毛利氏]]攻めなどの先鋒を務める。ところが、[[1578年]]([[天正]]6年)3月、播磨国の[[別所長治]]が殆どの周辺豪族を引き込んで信長に反旗を翻すと、志方城の兄・櫛橋伊則もこれに呼応して敵対した。しかし同年7月、志方城は[[織田信雄]]の兵に包囲され、出撃を数度繰り返すも被害は大きく、[[別所氏]]の[[神吉城]]が落とされると、同年8月10日に父・伊定は人質を出して兵士たちの助命を条件に自害した。兄らは許されて、後に[[黒田氏]]に仕えた。
 
その後、夫・孝高は[[豊臣秀吉]]の腹心として活躍し、[[豊前国]]中津12万石の[[大名]]になると、光は他の大名家の妻子と同様に大坂に置かれた。[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]が起こると、[[石田三成]]が大坂に残っている大名の妻子を人質にしようとしたが、[[細川ガラシャ]]が拒否して玉造の屋敷に火を放った際に伴い監視が緩むと、孝高の家臣たち([[栗山利安]]、[[母里友信]]、[[宮崎重昌]])によって、光や長政室・[[栄姫]]は長柄の屋敷から救出され、孝高の居城の[[豊前国]][[中津城]]まで船で脱出した。
 
夫や息子は[[受洗]]して[[キリシタン]]となったが、光は熱心な[[浄土宗]]の信徒で、[[1602年]](慶長7年)に出家して照福山顕光院[[圓應寺]]などの寺院を建立した。黒田家では「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)」と称えられた。
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