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{{otherusesOtheruseslist|朱雀天皇皇女の昌子内親王|明治天皇皇女の昌子内親王|恒久王妃昌子内親王}}
'''昌子内親王'''(しょうし(まさこ)ないしんのう、[[天暦]]4年([[950年]]) - [[長保]]元年[[12月1日_(旧暦)|12月1日]]([[1000年]][[1月10日]]))は、第61代[[朱雀天皇]]第一皇女。母は[[女御]][[煕子女王]]。第63代[[冷泉天皇]][[中宮]]。
 
 
== 生涯 ==
父朱雀天皇退位後の天暦4年(950年)に誕生、同年8月10日[[親王宣下|内親王宣下]]を受ける。母煕子女王は生後間もなく死没、父朱雀上皇も一人娘昌子内親王の行く末を案じつつ、同6年(952年)に30の若さで[[崩御]]する。幼くして両親を亡くした昌子内親王を叔父[[村上天皇]]が憐れんで手厚く庇護し、[[応和]]元年(961年)宮中[[承香殿]]で初笄、[[宸翰|宸筆]]により[[品位 (位階)|三品]]に叙した。
 
応和3年(963年)、[[皇太子]]憲平親王(後の[[冷泉天皇]])に入内。[[康保]]4年(967年)に冷泉天皇が即位、それに伴い[[中宮]]に立后。しかし冷泉天皇は在位わずか2年で退位。その後、昌子内親王は[[天禄]]4年(973年)の[[皇太后]]、[[寛和]]2年(986年)の[[太皇太后]]を経て、長保元年(1000年)[[崩御]]。享年50。
 
狂気の夫冷泉天皇を恐れて殆ど里邸に過ごしたが、資質淑慎で后妃の徳ありと言われ、篤く仏教に帰依した后だった。北岩倉山[[大雲寺 (京都市)|大雲寺]]に観音院を創建したことから、観音院太后とも称される。子女はなく、[[村上天皇]]第八皇子[[永平親王]]を養子とした。なお昌子内親王の御所には[[越中国|越中]]守平保衡女とその娘の[[和泉式部]]が仕えており、また晩年には歌人[[藤原為頼]]([[紫式部]]の伯父)が[[皇后太后職|太皇太后宮大進]]をつとめた。
 
陵墓は岩倉陵([[京都府]][[京都市]][[左京区]]岩倉上蔵町)。
 
 
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[[Category:日本の皇后]]