「ガッラ・プラキディア」の版間の差分

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彼女は、最初は息子の名の下に統治を行おうとしたが、彼女に忠誠を誓う将軍が死んだりアエティウスになびいたりするにつれ、帝国の政治は彼の手に落ち、アエティウスは貴族となった。プラキディアは見かけはアエティウスと友好関係を保った。アエティウスはのちに西ローマ帝国を[[アッティラ]]率いる[[フン族]]から防衛する中心となる。アッティラは狙いをコンスタンティノポリスからイタリアに向けたが、それはプラキディアの娘ホノリアからの愚かな手紙のためであった。450年の春、ホノリアはアッティラに、プラキディアを含む皇族が元老院議員との結婚を強制するので、自分を救い出してほしいと送ったのである。プラキディアの最後の行動は、息子のウァレンティニアヌス3世に、ホノリアを殺すよりも追放するよう説得したことである。450年11月にプラキディアは死去し、451年から453年のアッティラによるイタリア略奪を見ることはなかった。アッティラはホノリアの手紙を「合法的な」要請としたが、略奪はゴート人によるものよりも残虐なものであった。
 
プラキディアは一生を通じて敬虔な[[カトリック教会|カトリック]][[教徒]]で、後年には[[ラヴェンナ]]でいくつかの[[教会]]に寄進を行った。ラヴェンナの[[ガッラ・プラキディア廟堂]]は、1996年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]によって[[世界遺産]]に登録されている。
 
== 参考文献 ==
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