「伊東重孝」の版間の差分

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寛文8年4月28日 、七十郎は処刑されるとき「やい万右衛門、よく聞け、われ報告の忠を抱いて、罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば、体も前に附すと聞くがわれは天を仰がん。仰がばわれに神霊ありと知れ。三年のうちに癘鬼となって必ず兵部殿を亡すべし」といっ云う。万右衛門の太刀が弱く壮烈か七十郎の頚が固くてか、首は半分しか切れぬ。七十郎は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧み「あわてる最期、心鎮めて斬られよ」叱咤した。万右衛門は気を取り直して振り上げた二度目の太刀で七十郎の首を斬り落としたが、同時に七十郎の体が果たして天を仰いだ
 
 
遺骸は阿弥陀寺(仙台市若林区新寺)に葬られたと伝えられるが、のちに伊東家の菩提所である栽松院(仙台市若林区連坊)に伊東七十郎重孝の墓として祀られている。また、当時の人々が七十郎の供養のため建立した「縛り地蔵尊」(仙台市青葉区米ヶ袋)は、万病平癒の功徳があるといわれ、祈願が叶ったら縛って上げることになっており、今でも信心している人が多い。さらに昭和5年(1930年)、桃生郡北村(石巻市北村)に「重孝神社」が創建されその霊が祀られている。
 
 
七十郎の最期から2年10か月経った[[寛文]]11年([[1671年]])2月28日、涌谷領主[[伊達安芸宗重]]の上訴により伊達兵部一派の藩政専断による宿弊、不正、悪政が明るみに出た。そして、伊達兵部宗勝や[[原田甲斐宗輔]]たち兵部一派が処分され伊達家の安泰に及び、伊東七十郎重孝の忠烈が称えられ、延宝3年(1675年)伊達綱村公の御世に伊東家は旧禄に復し再興された。