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'''駒井重勝'''(こまい しげかつ、生年不詳 - [[寛永]]12年([[1635年]]))は、[[安土桃山時代]]の[[豊臣政権]]の大名。文筆に優れ、駒井自身の生きた時代の貴重な記録「[[駒井日記]]」の著者である。[[駒井秀勝]]の子。従五位下、中務少輔。八右衛門。
 
[[六角氏]]に仕えていたが、[[織田信長]]により六角氏が滅ぼされたのち、[[豊臣秀吉]]に召し出された。[[大津]]奉行、[[草津]][[矢橋]]代官を歴任。政治的手腕を秀吉に買われ、[[豊臣秀次]]に附けられた。秀次の[[蔵入地]]の管理などを司り、また[[右筆]]も務める。[[天正]]19年([[1591年]])、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜された。

[[文禄]]2年([[1593年]])、秀元を去り、秀吉に接仕え臣となる。そのため、文禄4年に[[豊臣秀次#秀次事件|秀次事件]]に連座することはなかった。その頃には[[豊後国]]大野、直入、大分、海士辺郡内2万5000石を領するまでになり、そのうえ[[伊勢国]]安芸郡徳田村、横地村1300石も加増された。[[越前国]][[検地]]奉行なども務める。
 
<!---処世に長けた重勝であったが、--->[[関ヶ原の戦い]]では西軍に属して[[伏見城の戦い]]に従軍したため、戦後失領し浪人となる。その後、[[加賀藩]]の[[前田利長]]に仕えた。
 
処世に長けた重勝であったが、[[関ヶ原の戦い]]では西軍に属して[[伏見城の戦い]]に従軍し、戦後失領し浪人となる。その後、[[加賀藩]]の[[前田利長]]に仕えた。
 
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