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== 生涯 ==
廉勝は本来なら家督を継ぐはずだったが、先代の忠総に先立ったため、孫の憲之が世嗣となった。そして[[慶安]]3年([[1650年]])の祖父の死去により、翌年に後を継いで膳所藩主となる。同年4月、膳所から伊勢亀山に移封された。[[明暦]]元年([[1655年]])には近江[[守山宿]]で[[朝鮮通信使]]の接待を命じられている。又、[[明暦]]3年1月18日([[1657年]]3月2日)に発生し[[江戸]]の大半を焼失するに至った「[[明暦の大火]]において、幕命により被災者救援に当たり、[[内藤忠興]]・[[六郷政晴]]・[[松浦鎮信]]と共に[[増上寺]]前などで粥の炊き出しを行った。[[寛文]]9年([[1669年]])2月25日、1万石加増の6万石で山城淀へ加増移封された。[[延宝]]5年([[1677年]])、畿内と西国の[[天領]]の[[検地]]を務めている。
 
優れた教養人でもあり、将軍・[[徳川綱吉]]の学問の師匠を務め、多くの著書を残した。亀山の[[侍医]]多賀伯庵の一子安雄の画才を評価し、[[狩野安信]]への入門を命じた。この安雄後の絵師・[[英一蝶]]であり、憲之は才能の発掘にも努めた
 
嫡子の[[石川昌能|昌能]]だけでなく嫡孫の[[石川勝之|勝之]]も早世したため、宝永3年([[1706年]])2月25日、次男の[[石川義孝|義孝]]に家督を譲って隠居した。宝永4年(1707年)7月11日に74歳で死去した。墓所は京都の本祥寺。
 
 
{{膳所藩主|石川氏|第2代|1651年}}