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'''ウルシュラ・マイェリン'''([[ポーランド語]]表記:Urszula Mayerin / [[ドイツ語]]表記:Ursula Meierin,[[1570年]] – [[1635年]])は、[[ポーランド王]][[ジグムント3世]]の愛妾で、国政に強い影響力を及ぼした女性。実際の姓は'''ギエンガー'''(Gienger) (Gienger) と思われるが、彼女の手紙は全てマイェリン姓で署名されている。マイェリン(meierin) (meierin) とはドイツ語で「侍従、女官長」を意味する。
 
== 生涯 ==
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ウルシュラはおそらく[[南ドイツ]]、[[バイエルン公国]]の[[ミュンヘン]]近郊で、貧窮した貴族の娘として生まれ、少女期の1580年代に[[グラーツ]]に移った。ウルシュラは幼い頃から美少女として有名で、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の[[マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1551-1608)|マリア・アンナ大公妃]]([[カール2世 (オーストリア大公)|カール大公]]の妻)によって[[ポーランド王]][[ジグムント3世]]の愛人とするべく見出された。ジグムント3世と婚約したマリア・アンナの娘[[アンナ・フォン・エスターライヒ (1573-1598)|アンナ]]が不器量であったためと、[[ハプスブルク家]]にはかつて[[ジグムント2世|ジグムント2世アウグスト]]との結婚問題でポーランドとの関係を悪化させた過去があったからである。ウルシュラは1592年王妃となったアンナの宮廷に寝室係として加えられた。
 
ウルシュラは国王夫妻に強い影響力を及ぼすようになった。彼女は熱烈な[[カトリック教会|カトリック教徒]]だったという。[[ポーランド・リトアニア共和国]]に到着してすぐに、ウルシュラは[[ポーランド語]]を習得した。国政に影響を与える彼女は共和国では評判が悪く、また彼女は国王の寵愛を利用して国内での地位を高めた。彼女は軽蔑的に「国王の愛人、スカートを穿いた大臣、[[イエズス会]]の狂信者」と呼ばれていた。また国王の秘書[[ヤン・シチェンスニィ・ヘルブルト]]は彼女のことを「淫乱な寵姫」と呼んだ。
 
ウルシュラは王妃の[[侍従|女官長]](Ochmistrzyni) (Ochmistrzyni) の任にあった。彼女は国王の子供たちの第一[[ガヴァネス|教育係]]で、王家の乳母たちの監督責任者でもあったが、部下たちの間では人望が無く、特に[[ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ王子]]の乳母フォーブス夫人([[スコットランド人]]で[[プロテスタント]])には蛇蠍のごとく嫌われていた。1598年に王妃アンナは亡くなったが、ウルシュラはポーランドを離れることなく次のドイツ人王妃の女官となった。彼女は国王と[[ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ王子]]の深い寵愛を受けていたためである。彼女の王子に送った愛情深い手紙からは、単なる教育係の愛着以上の感情を読み取ることも出来る。
 
1605年、ジグムント3世が前王妃の妹[[コンスタンツェ・フォン・エスターライヒ|コンスタンツェ]]と[[クラクフ]]で再婚すると、ウルシュラは新王妃の「親しい悩みの種にして愛着の対象」となった。彼女は王妃の馬車に同乗して旅行の供をし、同じテーブルについて食事を摂り、王妃の宮廷財政を管理し、国王との公的な謁見のセッティングまでした。彼女は再び国王の子供達の教育係となり、王子王女たちとは主に[[ポーランド語]]で会話をしていた(母親である王妃だけが[[ドイツ語]]で子供たちと会話していた)。彼女は生涯結婚せず、舞い込んでくる縁談を断り続け、親友[[アルブレフト・スタニスワフ・ラジヴィウ]]の求婚にも応じなかった。