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== 芸者から尼僧へ ==
[[1919年]]、[[北浜]]の[[相場師]]で映画会社も経営していた小田末蔵と結婚。夫について渡米し、[[アメリカ]]各地を旅する。この間8か月ほど[[ニューヨーク]]郊外の女子学校の寮に住み、英語を学ぶ。このとき、ヒルデガルドという女性と[[レズ]]関係にあったと言われている<ref>[http://www.flickr.com/photos/24443965@N08/4472454374/in/set-72157623523290473 TERUHA and Her LESBIAN LOVE AFFAIR in the USA.... And the LITTLE GIRL Born to Her in FRANCE ]</ref>。帰国後、夫婦仲がうまくいかなくなり、2度の自殺未遂を起こしたのち離婚。アメリカに戻り、[[ロンドン]]へ行くが、知人であった[[早川雪洲]]のアドバイスで[[パリ]]に移る。この間にパリで子を生んだとされている。帰国後再び芸者として働く。[[1923年]](大正12年)には、小田照葉の名で[[中川紫郎]]監督映画『愛の扉』に主演している。医学博士と再婚するが、これも破綻し、大阪でバーを経営<ref name="repo2"/>。[[1928年]]には騒人社書局より自伝『照葉懺悔』を出し、以降も自らの体験を綴った本を出版。[[1935年]]、39歳のときに[[久米寺]]で得度し、智照を名乗る。寂れていた[[京都]]の[[祇王寺]]の庵主となり、復興させる。祇王寺は傷ついた女性たちの心の拠り所として話題を集め、[[1963年]]には瀬戸内寂聴が智照をモデルに小説『女徳』を著した。幼くして親に騙されて身売りされ、10代で早くも死にたいと漏らしていた<ref name="repo2"/>少女は、明治、大正、昭和と逞しく生き抜き、[[1994年]](平成6年)に98歳で没した。
 
== 自著 ==