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しまあじ (会話 | 投稿記録)
en:Charles Felix of Sardinia( 06:13, 14 January 2014‎)より抄訳
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'''カルロ・フェリーチェ'''([[イタリア語]]:Carlo Felice Giuseppe Maria di Savoia、[[1765年]][[4月6日]] - [[1831年]][[4月27日]])は、[[サルデーニャ王国]]の第6代[[サルデーニャ君主一覧|国王]](在位:[[1821年]] - [[1831年]])。
 
== 生涯 ==
[[ヴィットーリオ・アメデーオ3世]]の11人の子供のうちの五男。母は[[スペイン]]王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]の娘マリーア・アントニエッタ。
=== 生い立ち ===
第3代国王[[ヴィットーリオ・アメデーオ3世]]の11人の子供のうちの五男。母は[[スペイン]]王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]の娘[[マリーア・アントニア・ディ・スパーニャ|マリーア・アントニエッタ]]。1765年にトリノの王宮で生まれた。兄には[[カルロ・エマヌエーレ4世]]や[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世]]らがいる
 
誕生以来、彼はジェネヴェーゼ公爵の称号で呼ばれた。子供時代のカルロ・フェリーチェは、すぐ上の姉の[[マリーア・カロリーナ・ディ・サヴォイア|マリーア・カロリーナ]]や弟のモリアナ伯ジュゼッペとともに、モンカリエーリ城{{enlink|Castle of Moncalieri}}で暮らした。
 
1796年、ナポレオン率いるフランス共和国軍がピエモンテを占領し、サヴォイア家の王族はトリノを追われる。
 
[[1807年]][[3月7日]]、[[両シチリア王国|両シチリア王]][[フェルディナンド1世 (両シチリア王)|フェルディナンド1世]](当時はシチリア王フェルディナンド3世)の娘である[[マリア・クリスティーナ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1779-1849)|マリア・クリスティーナ]]と結婚した。
 
=== 治世 ===
[[カルロ・エマヌエーレ4世]]や[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世]]といった兄がおり、王位を継ぐ見込みは少ないように思えたが、カルロ・エマヌエーレには子供が出来ず、ヴィットーリオ・エマヌエーレの子供は娘ばかりだったため、50歳を過ぎてから1821年に王位につく。
[[カルロ・エマヌエーレ4世]]や[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世]]といった兄がおり、王位を継ぐ見込みは少ないように思えたが、カルロ・エマヌエーレには子供が出来ず、ヴィットーリオ・エマヌエーレの子供は娘ばかりだった([[サリカ法]]により女子には王位継承権がない)。1821年、自由主義将校団を中心とした立憲革命の嵐の中でヴィットーリオ・エマヌエーレが退位すると、サリカ法の規定によって、すでに50歳を過ぎていたカルロ・フェリーチェが王位を受け継ぐこととなった。しかしこの時、カルロ・フェリーチェ本人は[[モデナ]]におり、遠縁の一族である[[サヴォイア=カリニャーノ家|カリニャーノ公]][[カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイア|カルロ・アルベルト]]を摂政に任命した。カルロ・アルベルトは将校団と接触し、憲兵を制定を望む彼らの要求を受け入れた。これが1821年3月6月から14日の間に行われた。
 
しかし、自らの不在中に進められたこうした動きに対してカルロ・フェリーチェは否定的であり、トリノに到着した彼は一切の妥協を否定、秩序回復のためとしてオーストリア軍を導き入れた(結局彼らは1823年まで駐屯した)。さらに同じ年、カルロ・フェリーチェは、スペインの自由主義者の反乱の鎮圧に力を貸すためにスペインに赴いたが、こうしたことは国内の自由主義者の憎悪を集めることになった。ただ、この行動によってスペイン王の信頼を回復する。
 
カルロ・フェリーチェは実際反動政策を展開した。彼の見方によれば、フランス革命によって投げ入れられナポレオンによって拡散された、邪悪で冒涜的な「革新」を拭い去ることが当然であった。
 
カルロ・フェリーチェが統治した10年間は特に目立った事柄はなく、1831年に死去した。カルロ・フェリーチェも男子を得なかったため、傍系の[[サヴォイア=カリニャーノ家|カリニャーノ公]][[カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイア|カルロ・アルベルト]]が王位を継承した。
 
{{サルデーニャ王|1821年 - 1831年}}