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労の概念は[[中国]][[漢代]]にまで遡ることが知られ、[[居延漢簡]]の中にも登場している。積労(労の積み重ね)・年労は官人の勤務評価の材料として考慮された。日本の律令制にも導入され、勤務年数の意味を指していた。その一方で「労」が持つ漢字的な意味(手柄・功労)の意味での「労」という概念も用いられ、征夷・造営・造寺・献納などの功績によって[[叙位]]・昇進が行われる場合もあった。[[養老律令]]になると、「考」([[考選]])への読み換えが行われるようになった。また、何らかの事情で官職を止められた官人(犯罪などによる[[解官]]を除く)が[[散位]]のままでも[[散位寮]]や[[国衙]]に出仕したり、金銭を納めることで労の代替とする[[続労]]制度が確立されるようになった。こうした措置は主に無位や六位以下の官人を救済する目的で設けられたものであった。また、特定の官職にある六位の官人については一定条件の下で、五位への叙爵が認められるようになった。これを巡爵という。
 
[[平安時代]]([[9世紀]]後半)に入ると、ある官職ごとに定められた勤務年数を勤め上げた場合、原則的にその年数(労)の多少によって加階・任官を認めるという年労の制度が導入された。これは主に五位以上の[[貴族]]を対象としており、これまでの労とは異なり、他の官職に転任した時や散位時代の続労との通算は認められなかった。[[10世紀]]に入ると、特定の官職における年労を指す言葉として「(官職名)+労」という用語が登場するようになり、年労の多少が貴族社会の中で重要視されるようになった。例えば、近衛労であれば中将は従四位上に2-3年、正四位下には2年、少将は従五位上には2年、正五位上には3-4年、従四位下には3年、弁官労であれば中弁は正五位下には5年、従四位下には2-3年、従四位上には5-7年、少弁労は従五位上には2年、正五位下には5年がおおよその基準であった<ref>佐古、2012年、P39・44・70</ref>。もっとも、院政期に入ると摂関家などの有力な公家の子弟や院近臣などは年爵や勧賞による臨時の叙位によって労を満たさなくても昇進できるようになったため、労による昇進はそうしたつながりを持てない(出世が望めない)者に限定されるようになり、やがて消滅する。これは叙位や任官が治天の君や天皇にとって公家を統制する手段として用いられ、人為的な調整が行いやすい年爵や勧賞などを理由とした臨時の叙位が実施されたことによ部分が大きい。
 
== 脚注 ==