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国民の支持が離れて行く事に危機感を抱いたアルベルトは、統治の後年には積極的に改革派の意見を取り入れたが、その代償として改革派の一部が唱えた極端な[[民族主義]]に傾倒してしまった。もとより英雄願望の強かったアルベルトは自らがイタリアを救う英雄となる理想に酔い、現実的状況を考慮しない強硬な反[[オーストリア帝国|オーストリア]]主義に偏っていった。
 
=== 第一次イタリア統一独立戦争 ===
[[ファイル:Carlo Alberto firma lo Statuto (4 marzo 1848).jpg|300px|thumb|1848年3月4日の憲法に署名するカルロ・アルベルト]]
[[1848年]]にイタリア各地で反オーストリア・反王政の暴動が発生すると、これに乗ずる形で[[オーストリア帝国]]に宣戦布告を行う({{仮リンク|第1次イタリア独立戦争|it|Prima guerra di indipendenza italiana|fr|Première guerre d'indépendance italienne|en|First Italian War of Independence}})。オーストリア軍は北イタリアに駐屯するイタリア人部隊の反乱や民衆軍の組織立った攻撃に大きく動揺していたが、サルデーニャ王国軍はこのチャンスを全く利用できなかった。その理由はアルベルトと共和派色の強い反乱軍の双方が不信から団結できなかったこと、そしてサルデーニャ王国軍が外征の準備を整えていなかったためである。サルデーニャ軍は確かに優れた軍隊だったが、領土の守備や国内警備にのみ特化していた。故にトリノの[[参謀本部]]は[[ロンバルディア]]地方の正確な地図すら用意できず、ミラノの遠征軍との連絡は不十分なものであり続けた。
 
反乱軍の活躍もあってロンバルディアを占領し、更に共和派のマニン率いるヴェネト共和国が王党派の説得を受けてピエモンテへの合併による「北イタリア王国」の成立を決めた後も、参謀本部の不備とアルベルトの懐疑心は変わらなかった。彼は若き日のガリバルディも加わっていた共和派の反乱軍兵士に賛辞を送る代わりに、あからさまに侮蔑的な態度で接している。また後退を強いられたオーストリア軍が[[ヨーゼフ・ラデツキー|ラデツキー]]将軍の下で体勢を立て直す間、アルベルトは北部諸地域の王党派を支援して共和派を攻撃する事に費やした。
 
[[1848年]]、増援を得たオーストリア軍3万3000名とサルデーニャ軍2万2000名が衝突({{仮リンク|クストッツァの戦い (1848年)|en|Battle of Custoza (1848)|label=クストッツァの戦い}})し、オーストリア側は4600名の死者を出しつつも相手方を破った。サルデーニャ側は8000名の損害を出してミラノに撤退した。反乱軍は徹底抗戦の意思を固めていたが、此処にいたっても反乱軍を信用せず、それどころかオーストリアとの内通や王政廃止の謀議を疑っていたアルベルトは自らミラノを捨ててトリノに引き返してしまった。
 
=== 退位 ===
ミラノとヴェネツィアの愛国者を見殺しにして結ばれた休戦の後、サルデーニャの兵士や将校には絶望感が蔓延していた。非難の矛先を向けられたアルベルトは、その翌年に全軍を結集してオーストリア軍に決戦を挑んだ({{仮リンク|ノヴァーラの戦い (1849年)|en|Battle of Novara (1849)|label=ノヴァーラの戦い}})。しかし以前の問題点が何ら解決されないままに、好機だけが失われた状況で行われた戦いに勝機が在る筈もなく、むしろ皮肉にもオーストリアの勝利とアルベルトの権威失墜を決定付ける結果になった。完全に立場を失ったアルベルトは[[ポルトガル王国|ポルトガル]]に亡命、同年死去した。
 
現フランス領の[[アルベールヴィル]]の名はカルロ・アルベルト(フランス語名はシャルル・アルベール:Charles Albert)にちなんで付けられている。