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== 経歴 ==
[[大阪府]]生まれ。[[弘前藩|弘前]][[藩士]]、[[沖縄県警察部]]長・[[田中坤六]]の二男として生まれ、[[外交官]]・[[佐藤愛麿]]の養子となる。旧制正則中学校([[正則高等学校]]の前身)卒。[[1904年]](明治37年)、[[東京商科大学 (旧制)|東京商業学校]]([[一橋大学]]の前身)全科卒。
1905年(明治38年)、[[公務員試験|外交官及び領事官試験]]に合格し[[外務省]]入省。在[[ロシア]]公使館外交官補(のち
[[1937年]](昭和12年)、日本への帰国早々[[林内閣]]で外務大臣に就任。佐藤は入閣の条件として、平和協調外交、平等の立場を前提とした話し合いによる中国との紛争解決、対ソ平和の維持、対英米関係の改善の4つを林首相らに提示し、これを確認した上で就任を受諾した<ref name="NHKp76"/>。だが、就任直後の[[帝国議会]]で、持論の中国との話し合いを説き、戦争勃発の危機は日本の考え方次第であると述べた内容が、軍部や[[右翼]]から「軟弱外交」と非難を浴びることになった。そうした状況でも関東軍が推し進めた[[華北分離工作]]に反対し、中国との対立を避けるためにその具体策として日華貿易協会会長[[児玉謙次]]を団長とする経済使節団を中国に派遣した。使節団の一行は、3月12日に神戸港を出帆して中国に渡り、蒋介石と会見し、中国政府要人及び経済人と26日まで幾度か会合し、協議した。しかし林内閣の総辞職とともに退任。その直後に[[盧溝橋事件]]が起きた。
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[[1965年]](昭和40年)7月、[[第7回参議院議員通常選挙|第7回通常選挙]]に出馬せず引退。[[参議院]]では、[[1948年]](昭和23年)、参議院外交委員長、[[1949年]](昭和24年)[[参議院議長]]などを歴任。その他、[[1953年]](昭和28年)、[[伊勢神宮]]奉賛会初代会長、また[[日本国際連合協会]]会長等も務めた。
== 人物 ==
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