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'''レオンティオス'''(<small>[[ギリシア語]]</small>:{{lang|el|'''Λεόντιος''', Leontios}}、? - [[706年]][[2月15日]]?)は、[[東ローマ帝国]]の[[皇帝]](在位:[[695年]] - [[698年]])。
 
[[小アジア]]半島南東部のイサウリア地方の出身。[[コンスタンティノス4世]]時代から[[テマ]]・アナトリコンの長官として活躍していた。[[686年]]には[[ユスティニアノス2世]]によってアルメニア戦線に投入されるなどしている。しかしユスティニアノス2世の不興を買って[[692年]]頃に投獄された。695年に赦免されて、{{仮リンク|テマ・ヘラス|el|Θέμα Ελλάδος|en|Hellas (theme)}}(この時に新設?)の長官に任じられる。だが彼は[[戦車競走|サーカス党派]]の力を借りて[[クーデター]]を起こし、ユスティニアノス2世を捕らえて鼻を削いだ上で[[クリミア半島]]の[[ケルソン]]に追放し、自ら皇帝として即位した。なお彼は皇帝としては公的にはレオンティオスではなく、'''レオーン'''を名乗っていた。
 
695年には帝国の北アフリカ支配の拠点であった[[カルタゴ]]が[[ウマイヤ朝]]に制圧された。これに対してレオンティオスは艦隊を送って[[697年]]に一旦はカルタゴを奪回した。しかし698年に再度カルタゴを奪われる。そして[[クレタ島]]まで撤退してきた艦隊がキビュライオタイの指揮官アプシマロス([[ティベリオス3世]])を擁して反乱を起こし、[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]を攻略したため廃位され、投獄された。さらにその後[[705年]]にユスティニアノス2世が復位すると、復讐に燃えるユスティニアノスによってティベリオス3世と共に処刑された。