「桃中軒雲右衛門」の版間の差分

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[[画像ファイル:Kumoemon Touchuken.jpg|thumb|180px|桃中軒雲右衛門]]
'''桃中軒 雲右衛門'''(とうちゅうけん くもえもん、[[1873年]]([[明治]]6年)[[5月5日]] - [[1916年]]([[大正]]5年
[[11月7日]])は、明治から大正時代にかけての日本の[[浪花節|浪曲]]師。亭号は[[沼津駅]]の駅弁屋である[[桃中軒]]に由来する。名は修行時代に兄弟分であった力士の「天津風雲右衛門」に由来するとされる([[石谷華堤]]および[[正岡容]]の説、他に諸説あり)。
 
== 略歴 ==
本名は山本繁吉。[[群馬県]][[高崎市]]新田町出身。
本名は山本繁吉。[[群馬県]][[高崎市]]新田町出身。父は地方回りの[[祭文]]語りをしていた[[吉川繁吉]]で、その二男として生まれる。母・ツルは三味線弾きであった。
 
最初は吉川小繁を名乗り、ヒラキでの口演や流しなどをしていた。父の没後、その名である2代目吉川繁吉を襲名し、寄席への進出も果たす。その後、横浜で中京節の初代[[三河家梅車]]と興行を共にされていた夫人のお浜に同情して恋仲となり、そのまま駆け落ちして結婚したため関東に戻れず、京都を経て九州へと至り修行を積む。その過程で従来の関東節に加えて、関西節や、九州で当たりを取っていた[[美当一調]]の改良浪花節を自家薬籠中のものとして、後の雲右衛門節を生み出していった。
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[[1903年]](明治36年)、桃中軒牛右衛門の名で雲右衛門に弟子入りしていた[[宮崎滔天]]や、[[福本日南]]、政治結社[[玄洋社]]の後援で「義士伝」を完成させる。[[武士道]]鼓吹を旗印に掲げ、[[1907年]](明治40年)には[[大阪]][[中座]]や[[東京]][[本郷座]]で大入りをとった。雲右衛門の息の詰まった豪快な語り口は、それまで寄席芸であった浪曲の[[劇場]]への進出を可能にし、浪曲そのものも社会の各階級へ急速に浸透していくことになる。
 
しかし[[1913年]](大正2年)ごろから、肺結核になり、宮崎の説得で何度か入院をしたが元気になるとすぐに巡業に出てしまい、最後に実子の西岡稲太郎の自宅に引き取って看病した甲斐もなく、[[1916年]](大正5年)11月7日に死亡した。墓所は[[東京都]][[品川区]]の[[天妙国寺]]。戒名は「桃中軒義道日正居士」<ref>大衆芸能資料集成 第六巻 芝清之</ref>。略称として「雲」一文字、または「雲入道」がある。雲右衛門独特の重厚なフシ調を「雲調」と呼ぶ
略称として「雲」一文字、または「雲入道」がある。雲右衛門独特の重厚なフシ調を「雲調」と呼ぶ。
 
弟子に、桃中軒如雲、[[東家楽燕]]、[[酒井雲]]、他、孫弟子に、[[村田英雄]]、東家三楽、京乃天姫、などがいる。