「モーリス・ラヴェル」の版間の差分

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→‎生涯: アラジョアヌ教授の発言を見る限り、外科的手術で治るものではないと思っていたようですから、手術を勧めたというのは事実に反すると思います。
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[[1933年]]11月、パリで最後のコンサートを行い、代表作『ボレロ』などを指揮するが、この頃には手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化しており、コンサート終了後、ファンからサインを求められたラヴェルは、「サインができないので、後日弟にサインさせて送る」と告げたという。[[1934年]]には周囲の勧めで[[スイス]]の[[モンペルラン]]で保養に入ったが、いっこうに健康が回復せず、病状は悪化の一途をたどった。[[1936年]]になると、周囲との接触を避けるようになり、小さな家の庭で一日中椅子に座ってボーっとしていることが多くなった。たまにコンサートなどで外出しても、無感動な反応に終始するか、突発的に癇癪を爆発させたりで、周囲を困惑させた。
 
病床にあって彼はいくつかの曲の着想を得、それを書き留めようとしたがついに一文字も書き進める事が出来なくなったと伝えられる。ある時、友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と呟いた。同時期、ラヴェルは神経学者T・アラジョアニヌ博士の診察を受けるが、博士の勧めは失語症や理解障害など脳神経学的な症状あると判断した。しかし脳内出血などを疑っていたラヴェルの弟のエドゥアールや友人たちはその診断に納得せず、[[1937年]][[12月17日]]に脳外科医のC.ヴァンサン教授の執刀のもとで手術を受けた。しかし腫瘍も出血も発見されず、脳手術は彼が部に若干望みをかけ委縮が見られものだけだったが、。しかも左脳の症状であるにもかかわらず右脳を開頭し、萎縮した脳を膨らまそうとして水を注入するなど、ほとんど無意味なものだった。手術後は一時的に容体が改善したが、まもなく昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま[[12月28日]]に息を引き取った。62歳であった。会葬には[[ダリウス・ミヨー]]、[[フランシス・プーランク]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]らが立会い、遺体は[[ルヴァロワ=ペレ]](パリ西北郊)に埋葬された。
 
晩年を過ごした[[イヴリーヌ県]][[モンフォール=ラモーリー]]にあるラヴェルの最後の家は、現在[[ラヴェル博物館]]([http://www.ville-montfort-l-amaury.fr/6_ravel/musee.htm Musée Maurice Ravel])となっている。浮世絵を含む絵画や玩具のコレクション、作曲に用いられたピアノなどが展示されている。