「小国城 (出羽国最上郡)」の版間の差分

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[[細川直元]]は、[[天童城]]主[[天童頼澄]]と同盟して、[[最上義光]]に敵対していたが、義光が[[天童氏]]を滅ぼすと、[[天正]]8年(1580年)に小国郷にも攻め込んできた。[[山刀伐峠]]を越えて攻め込んだ最上軍に対し、[[赤倉温泉 (山形県)|赤倉温泉]]付近にある平原、万騎ヶ原で迎え撃つがあえなく敗退、直元は討ち死にして細川氏は滅亡、小国郷は[[最上氏]]の領地となった。
 
義光は、万騎ヶ原の戦いで戦功があった家臣の[[蔵増光忠]](くらぞう あきただ、蔵増安房守に小国郷を与えた。蔵増安房守光忠の嫡子光基は、家督を受け継ぐと地名を取って改姓し[[小国光基]](おぐに みつもと)と改名し、岩部の館を改修して小国城となった。
 
その後、小国氏の居城として使われていたが、主家・最上氏が家督相続にまつわるお家騒動(([[最上騒動)]])で[[元和 (日本)|元和]]8年(([[1622年)]])に[[改易]]されると、小国氏も[[佐賀藩]][[鍋島家]]預かりになって小国郷を去り、小国城は廃城となった。
 
==構造==