「ジェームズ・マディソン」の版間の差分

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それに続く米英戦争の中で、イギリスとカナダ人および同盟[[ファースト・ネーション]]([[インディアン]])が多くの勝利を収めた。その中にはアメリカの将軍が戦わずして自軍より小さな部隊に降伏した[[デトロイト]]砦の占領や、マディスンが[[ワシントンD.C.]]から逃亡し、イギリス軍から[[ホワイトハウス]]に火をつけられる目にあった[[ワシントン焼き討ち]]もあった。このワシントン焼き討ちはアメリカ軍が[[アッパー・カナダ]]のヨーク(現在の[[トロント]])に侵入したことの報復だった。アメリカ軍は2度市内を占領し、アッパー・カナダの議会議事堂を焼いていた。イギリスは西部のアメリカ・インディアンも武装させた。その中でも[[テカムセ]]とその追随者が著名だが、テカムセは[[テムズの戦い]]で破れた。アメリカは[[五大湖]]地方でイギリスよりも早く艦隊を作り上げ、[[オリバー・ハザード・ペリー]]がイギリス艦隊を破って、イギリス軍による1814年のニューヨーク侵入を阻止した。[[大西洋]]上ではイギリス艦隊が海岸線全体を封鎖し、外国との貿易はおろか港間の国内交易も遮断した。[[ニューイングランド]]での経済状況は大変厳しいものだったが、企業家が工場を建設し、それが間もなくアメリカにおける[[産業革命]]の基盤になった。
 
マディスンは大変な逆境に直面した。すなわち分裂した内閣、派閥争いをする党、抵抗する議会、妨害する知事達、さらには無能な将軍達であり、民兵たちは自州から外に出て戦うことを拒んだ。最も深刻だったのは一貫して大衆の支持を得られなかったことだった。カナダとは大量の密輸があったニューイングランドからは戦争への財政的支援や兵士の提供について拒絶があり、脱退の脅しもあった<ref>Stagg, 1983.</ref>。しかし南部の[[アンドリュー・ジャクソン]]や西部の[[ウィリアム・ハリソン]]は1813年までにインディアンによる大きな脅威を潰していた。