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[[File:Bandeira_Federalista_Ibérica_(1854).svg|thumb|250px|イベリスモが提案する国旗。19世紀の両国の国旗を基にしている。]]
[[File:España_y_Portugal.jpg|thumb|300px|イベリア半島の衛星写真。このような形状であるため、スペイン本土が描かれた長方形の地図を作成する場合、必然的にポルトガル本土もその地図の中に収まることになる。]]
'''イベリスモ'''([[スペイン語|西]]・[[ポルトガル語|葡]]: '''{{lang|la|Iberismo}}'''、葡語では「イベリジュモ」と発音)とは、[[イベリア半島]]に領土を有する[[スペイン]]と[[ポルトガル]]両国の政治的統合を目指す運動。[[19世紀]]中盤から、スペイン・ポルトガル両国の知識人の中にこのイベリスモを提唱している人がいる。
 
スペインとポルトガルは、言語的・文化的・歴史的に多くの要素を共有している。いずれも先住民は[[ケルト人]]や[[イベリア人]]であり、その後[[ローマ帝国]]の一部となり、西ローマ帝国の崩壊後は[[西ゴート王国]]の一部となる(西ゴート王国は初期は今の南フランスにも領土を持っていた)。その後イスラム勢力が侵攻して[[アル=アンダルス]]の一部となり、イベリア半島北部に逃れた[[キリスト教徒]]が[[レコンキスタ]]を通じて南方に領土を拡大していった。その過程で後のスペインの主体となる[[カスティーリャ王国]]から[[ポルトガル]]の前身である[[ポルトゥカーレ伯領]]が[[1143年]]に独立を認められたが、この際に言語的にはポルトガルとほぼ同一であった[[ガリシア州|ガリシア]]はカスティーリャ側に残された。ガリシアでは現在でも[[ガリシア語]]が話されており、このガリシア語とポルトガル語はポルトガルが独立するまでは同一の言語共同体を形成していたため、非常に近く(とくにドウロ川以北のポルトガル語とは非常に近い関係にある)。また今日でも[[ポルトガル人]]と[[ガリシア人]]の間には国家の枠を超えた親近感を強く有する。
 
レコンキスタの終了後には[[大航海時代]]に[[中南米]]や[[アフリカ]]、[[アジア]]などに植民地を持ったりこれらの地域と交易を行ったりして(その中には[[日本]]も含まれる)、これらの地域にイベリア半島の文化や[[カトリック教会|カトリック]]などを伝えた。[[1580年]]から[[1640年]]までは[[ハプスブルク家]]のスペイン王がポルトガル王も兼ねる[[同君連合]]の状態であり、[[ブラガンサ王朝]]が成立することでポルトガルは再度政治的独立を確保することとなる。しかし17世紀以降は没落し、19世紀初頭には[[ナポレオン・ボナパルト]]による侵攻を受け(ポルトガルではこの時期、王室が[[リオデジャネイロ]]に避難している)、[[スペイン独立戦争]]を通じて独立を勝ち取ったものの、その余波が[[ラテンアメリカ]]にも波及し、植民地に独立を許すこととなる。
 
また、[[20世紀]]にはスペインでは[[スペイン内戦]]後に[[フランシスコ・フランコ]]による、ポルトガルでは1930年代に首相に就任した[[アントニオ・サラザール]]による軍事独裁体制が、1970年代中ごろまで続くことになる(スペインではフランコの死により[[1975年]]、ポルトガルでは[[カーネーション革命]]により[[1974年]]に軍事独裁体制が崩壊)。その後民主化とともに経済発展も進んだ両国は[[1986年]]にそろって当時の[[欧州共同体]](EC、現在の[[欧州連合]](EU))に加盟し、EC>EUの一員として共同歩調を取ることが増える一方で、[[イベロアメリカ首脳会議]]を通じてラテンアメリカとの関係も強化している。