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[[File:Château de Versailles, cour de marbre, buste de Commode, Vdse 95 01.jpg|220px|thumb|[[ヴェルサイユ]]宮の「大理石の中庭」に安置されるコンモドゥス像。<BR>父アウレリウスの胸像と似通った風貌が確認できる。]]
[[File:Marcomannia e Sarmatia 180-182 dC JPG.jpg|280px|left|thumb|180年-182年にかけての攻勢図]]
父の死後、しばらくコンモドゥス
同じくローマ軍に対する攻撃を狙っていたブリ族からは相手から講和が求められたが、コモンドゥス帝は攻撃準備を整えるための物であると見抜いて拒絶した。彼は幾つかの戦いでブリ族を攻撃し、人質を取ることを条件にした休戦を認めさせてブリ族を屈服させた<ref>Roman History LXXII</ref>。その後も周辺部族にローマへの帰順と捕虜返還を条件にした講和案を結んで戦線の安定化を図った<ref>Roman History LXXII</ref>。マルコマンニ族が疲弊していたことから、同時代では「瀕死の相手を助けた」「中立地域の農地を捨てた」と講和は感情的に評価されていた<ref>Roman History LXXII</ref>。実際にはドナウ川流域の軍事的平和に繋がり、[[テオドール・モムゼン]]は膨大化していた軍事費の抑制に成功したと評している。ドナウ川の情勢安定をもってローマ本国に帰還、180年10月22日に凱旋式を挙行した<ref>Herodian's Roman History1:7</ref>。
182年、[[元老院 (ローマ)|元老院]]はコンモドゥス
翌年、今度は属州[[ブリタンニア]]で[[ハドリアヌスの長城]]を巡る蛮族との戦いが起き、立て続けに国境部隊が敗れ去る事件が起きた。コンモドゥス
コンモドゥス
一方、ヘロディアヌスはペレンニスの内通者によって彼が反乱を計画していると知ったコンモドゥス
=== 国内統治 ===
即位から暫くは長姉の夫[[クラウディス・ポンペイウス]]、妻の父[[ガイウス・ブルトゥス・プラセネエス]]、首都長官[[アウフィディウス・ウィクトリヌス]]、近衛隊長[[セクストゥス・ペレンニス]]ら重臣と協力して統治を行っていたが、次第に貴族達の堕落した生活に毒されていった。特に近衛隊長セクストゥスは優秀な軍人で皇帝をよく補佐したが、同時に堕落した文化を教え込んだ奸臣の一人でもあり、有力貴族の財産を没収するなどの問題行動を起こしていた<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。若き日に宮殿の退廃に葛藤した過去を持つ父帝は「若者は欲望の前に容易に堕落させられる」との警句を残したが<ref>Herodian's Roman History</ref>、まさに自らの子がその言葉通りとなった。とはいえこの時点でコンモドゥスの治世はそれほどに失点のあるものではなく、私生活でも父に教えられた自らを律する習慣がまだ生きていた<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。
建築面でも元々神殿に近い立場であったためか父親を弔う[[アウレリウス神殿]]など複数の礼拝所を各地に建設させ、建設者や時期に関する碑銘が削られている[[マルクス・アウレリウスの記念柱]]もコンモドゥスによる建設ではないかとする論者もいる<ref>[http://www.livius.org/ro-rz/rome/rome_column_marcus_aurelius.html Rome: Column of Marcus Aurelius] livius.org</ref>。また治安面では軍の脱走兵がゲルマニアや[[ガリア]]で治安を乱していることが社会問題となっていたが、この問題に徹底した対処を行った<ref>[[ヘロディアヌス]]の記録による。<BR>ヘロディアヌスによれば逃亡兵や脱走兵たちは山賊のような略奪行為を繰り返していたが、マテルヌスという悪辣さで知られた一人の頭目によって軍としての組織だった行動すら起こすようになっていた。<BR>マテルヌス軍は各地の都市を襲撃しては、理由に関係なく投獄されていた罪人を解き放って自軍を肥大化させていった。<BR>マテルヌス軍がイベリアにまで略奪の手を広げていることを報告されたコンモドゥスは激怒して、イベリアの総督達に討伐に関する厳命を下した。<BR>マテルヌスは帝位を望んでいたものの、ローマ軍の正規部隊に戦いでは敵わず、また民衆の大多数はコモンドゥス帝を支持していることを理解していた。<BR>従って反乱兵は皇帝を暗殺することで簒奪を成功させようと目論み、帝都に潜入して近衛隊の衣服を入手すると祝祭に出席している所を狙う計画を立てた。<BR>しかしマテルヌスの計画に不満を持った反乱兵の一部が寝返り、彼らは祝祭に辿り着く前に捕らえられて首を刎ねられたという</ref>。コンモドゥス
=== 暗殺未遂事件 ===
{{Main|{{仮リンク|アンニア・アウレリア・ガレリア・ルキッラ|en|Lucilla|label=ルキッラ}}}}
[[File:Mars Venus Louvre Ma1009.jpg|170px|thumb|「軍神マルスと女神ウェヌス」([[ルーヴル美術館]])<BR>この立像における女神ウェヌスが{{仮リンク|アンニア・アウレリア・ガレリア・ルキッラ|en|Lucilla|label=ルキッラ}}を模して作ったものと言われている。]]
コンモドゥス
ある時、劇場を訪れたルキッラに対して、貴族達は后妃であるクリスピナに皇帝の隣席を譲るように促した<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。姉を隣席させていたのは皇帝の姉に対する配慮であったが、習慣から言えば妻を隣に置くのが儀礼であったからである。これに屈辱を感じたルキッラは自らの地位を不安に思い、弟の暗殺と帝位簒奪を計画する<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。帝位に推されたポンペイウス自身は妻をむしろ説得したとされるが、ルキッラは自らの愛人であった従兄弟のマルクス・アムディウスとクラウディウス・アッピウスに命じて、劇場を訪れたコンモドゥスを暗殺しようとした([[182年]])<ref>Roman History LXXII</ref>。しかし実行犯が正当化のためにわざわざ「元老院の命により」と叫んでから飛びかかったため、あっさり護衛兵が叩き伏せてしまった<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。
コンモドゥスは暗殺者2人をただちに処刑したが、姉は殺すことができず[[カプリ島]]への流刑とした<ref>Roman History LXXII</ref>。周囲の忠誠を疑ったコンモドゥスによる粛清は厳しく、無関係の者も含めて大勢の貴族や将軍が処刑された。クラウディス・ポンペイウスは自身は無関係であったため許されたが、政界での立場を失い引退に追い込まれた。自らも元老院議員であったカッシウス・ディオは触れていないが、在野の歴史家であった[[ヘロディアヌス]]はこの出来事でコンモドゥス
=== 暴政の開始 ===
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しかし、この近衛隊長官就任がクレアンデルの権力の頂点であった。[[190年]]にローマで穀物危機が発生した際、帝国は民衆に十分な食料を供給できなかった<ref>Roman History LXXII</ref>。結果、それまでコンモドゥスを支持してきた民衆が各地で暴動を起こすようになった。クレアンデルの責務は皇帝の護衛であって食糧問題は直接関係なかったが、物資長官[[パピリス・ディオニュシオス]]は罪をクレアンデルに被せた<ref>Roman History LXXII</ref>。民衆の怒りの矛先はクレアンデルへと向かい、6月末に民衆はクレアンデルの処罰をコンモドゥスに求めるべく円形闘技場に集まった。巫女に先導される民衆は口々にコンモドゥスを讃える一方、クレアンデルにはあらん限りの罵倒を叫んで行進した<ref>Roman History LXXII</ref>。あわてたクレアンデルは近衛兵部隊を差し向けて民衆を虐殺したが、民衆の側も激しい抵抗を見せ<ref>Herodian's Roman History1:13</ref>、また首都長官としてコンモドゥスの側近に昇格していた[[ペルティナクス]]が[[首都護衛隊]]{{enlink|Vigiles|a=on}}を動員して暴動を鎮静化させようとした。
ローマ近郊の離宮に滞在していたコンモドゥス
だがコンモドゥスがローマの民衆の前に現れると、民衆は歓呼の声で皇帝への讃辞を叫び、むしろ宮殿に向かう皇帝をクレアンデルに与していた近衛兵部隊に代わって護衛したという<ref>Herodian's Roman History1:13</ref>。
==== 親政再開 ====
[[File:Commodus Musei Capitolini MC1120.jpg|220px|thumb|right|「'''ヘラクレスの化身たるコンモドゥス
親政再開後、コンモドゥス
またコンモドゥス
闘技場では剣闘士のような蛮勇を見せるというよりは、獣を弓矢で射抜くなど技巧を披露するような方法を好んだ。腕前そのものは本人が誇るように優れたものであり、弓術ではパルティア人に勝り、槍ではムーア人に勝ったという。投槍で数十頭の豹を一度も外さずに射殺す、全速力で走っている駝鳥の頭を弓矢で正確に打ち抜くなど、常人離れした芸当は確かに民衆の少なくない数を畏怖させた。しかし同時にこれ以上にない格別の血筋に生まれた高貴なローマ人が、このような野蛮な勇気に没頭する様子に悲しむ者も多かった<ref>Herodian's Roman History1:15</ref>。
それ知ってか知らずか、コンモドゥス
{{quotation|ある時、陛下は切り落とした獣の首を貴賓席に座る我々の方へ笑いながら差し向けてきた。その行動は「余の気を損ねれば、お前達もこうなる」という言外の意味を含んでいることは明らかだった。しかし我々は恐怖よりも、その芝居がかった行動が滑稽に思える気持ちの方が強く、思わず笑いが零れそうになった。<BR><BR>我々は慌てて月桂樹の葉を口に噛んで笑いを堪えねばならなかった。もし笑えば本当にあの獣の如く殺されてしまうだろう<ref>Roman History LXXII</ref>。}}
191年、落雷による大火災によってローマ中心部の半数以上が焼け落ちる惨事が起きる<ref>Herodian's Roman History1:14</ref>。これを契機にしてコンモドゥス
コンモドゥスの専制君主としての振る舞いは遂には元老院すら「'''コモディアス・フォロム・セナートゥス'''」へ改めるように強制するに至った。更に全ローマ人は家名として「'''コモディアヌス'''」を用いることを命じられた。この一連の布告を出した日は「'''コモディアヌスの祝祭'''」と名付けられた<ref>Roman History LXXII</ref>。
[[File:Attic3DetWiki.jpg|200px|thumb|コンモドゥス
==== 暗殺 ====
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しかし、彼が新たな年を迎えることにはなかった。
ヘロディアヌスによれば、コンモドゥス
同じく暴君として暗殺された[[カリグラ]]や[[ネロ]]と異なり、腕の立つコンモドゥスが相手では近衛兵による暗殺は難しかった。そこで毒殺が試みられ、入浴後に飲酒する習慣のあったコンモドゥス
慌てたマルキアや重臣たちは、控えさせていた護衛の剣闘士ナルキッソスを差し向けた。コンモドゥス
死後に元老院は最大の刑罰である「[[ダムナティオ・メモリアエ]]」の適用を宣言したが、これは元老院から大変に憎まれていたことを象徴している。ローマに飾られていたヘラクレス・コンモドゥス像の多くは元老院によって破壊され、現在は1体が残るのみである。またコンモドゥス
== 略年表 ==
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== 評価 ==
戦争よりも学問を得意としたにもかかわらず、アウレリアス帝の統治した数十年間は間断なく戦争が続き、民が疲弊した時代だった。それに対してコンモドゥス
===内政===
対外政策では、ドナウ川戦線([[マルコマンニ戦争]])で[[ゲルマニア]]や[[サルマティア]]の諸族と講和を結んだことで、セウェルス帝以降に表面化する軍事費の膨大化を抑制し、また人事面での適切な判断でブリタンニアとダキアでの蛮族の侵入を大過なく乗り切ることができた。治世後期には疫病や火事による被害を受けたが、後述の理由により民衆の支持を保ち続け、大きな暴動に発展することも無かった。総じてコンモドゥスに対する批判は(発狂後を除けば)治世そのものというより、彼の私生活における放蕩と政務の委任についてのもので占められている。
そしてその放蕩な生活も、晩年の錯乱以外は必ずしも当時のローマの貴族文化の範囲を外れたものではなかった。コンモドゥス死後の継承者争い(「[[五皇帝の年]]」)を制した[[セプティミウス・セウェルス]]は、かつての皇帝に対する元老院の弾劾を全て差し戻させる決定を下したことで知られている<ref>Roman History LXXVI</ref>。その際元老院の反発に対してセウェルスは元老院にコンモドゥスを非難できる高潔な人間がどれだけ居るのかと批判している。セウェルスは「コンモドゥス
指導力についてはドナウ川戦線時代はともかく、ローマ本国に戻ってからは経験不足もあり父の残した重臣に統治を委任した。[[トラヤヌス]]、[[ハドリアヌス]]、[[アントニヌス・ピウス]]、および[[マルクス・アウレリウス]]といった先帝たちと違って、当初コンモドゥスは自らが皇帝として強権を振るうことをあまり望んでいなかった。その過程でクレアンデルなどの奸臣を重用したことは治世に悪影響を与えたが、父の重臣達や近衛長官ペレンニス、ペルティナクスなど有力な人物も要職に就けており、一概に否定だけはできない。ただ、自らがまず第一の人材であった祖先達に比べ、個人としてあまり優秀でなかったことは事実といえよう。
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===元老院との対立===
元老院との激しい対立や独裁、また後の悪評とは裏腹に、コンモドゥスは治世の最末期まで民衆と軍からは人気のある皇帝であり続けた。コンモドゥスは貧民に対する食事の提供など大規模な慈善活動を行い、また盛大な剣闘士大会や馬競争を開催して民衆に娯楽を提供した。対外的な平和や軍備削減の成功も相まって、栄光の見返りを存分に与えてくれるコンモドゥスを民衆は敬愛していたのである。加えて軍も幼い時から父アウレリアスと前線で過ごしたコンモドゥスに敬意を抱き、ブリタンニア内乱の際に皇帝に推された司令官は、コンモドゥス
公共事業の資金はほとんどが元老院階層など上流階層からの徴税で賄われ、当然ながら元老院との対立に拍車をかけた。しかし当のコンモドゥスも民衆と軍の支持を背景に元老院を嘲笑しており、伝統的な言い回しである「'''元老院'''及びローマ市民」('''SPQR''')という布告をわざと「ローマ市民及び元老院」('''PSQR''')と逆さにして公文書を出していた痕跡が残っている。
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また歴史家たちの中で唯一同時代人であった元老院議員[[カッシウス・ディオ]]は、コンモドゥスの治世を父と比べて欠陥が多かったと評しつつも同情的な評価も下している。
{{quotation|私はコンモドゥス
[[ヘロディアヌス]]はコンモドゥス伝の末尾において、以下のような評伝を残している。
{{quotation|コンモドゥス
== 称号 ==
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