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[[File:Château de Versailles, cour de marbre, buste de Commode, Vdse 95 01.jpg|220px|thumb|[[ヴェルサイユ]]宮の「大理石の中庭」に安置されるコンモドゥス像。<BR>父アウレリウスの胸像と似通った風貌が確認できる。]]
[[File:Marcomannia e Sarmatia 180-182 dC JPG.jpg|280px|left|thumb|180年-182年にかけての攻勢図]]
父の死後、しばらくコンモドゥスはドナウ川軍団の総司令官として前線に留まりつつ、際限のない蛮族との戦いを終わらせるための講和を模索した。半年近い交渉の末、蛮族とドナウ川沿いでの領土線を確定して戦争を終結させる。講和の内容は捕虜となっていた軍団兵の返還と年貢の支払い(これは途中で免除された)、及び[[マルコマンニ族]]と同盟を結んでいた[[クアディ族]]が合計1万3000名の同盟兵を提供することだった<ref>Roman History LXXII</ref>。また両部族はローマ帝国軍の監督下に置かれ、周辺部族との戦争も必ず皇帝の裁可を求めるものとした<ref>Roman History LXXII</ref>。
 
同じくローマ軍に対する攻撃を狙っていたブリ族からは相手から講和が求められたが、コモンドゥス帝は攻撃準備を整えるための物であると見抜いて拒絶した。彼は幾つかの戦いでブリ族を攻撃し、人質を取ることを条件にした休戦を認めさせてブリ族を屈服させた<ref>Roman History LXXII</ref>。その後も周辺部族にローマへの帰順と捕虜返還を条件にした講和案を結んで戦線の安定化を図った<ref>Roman History LXXII</ref>。マルコマンニ族が疲弊していたことから、同時代では「瀕死の相手を助けた」「中立地域の農地を捨てた」と講和は感情的に評価されていた<ref>Roman History LXXII</ref>。実際にはドナウ川流域の軍事的平和に繋がり、[[テオドール・モムゼン]]は膨大化していた軍事費の抑制に成功したと評している。ドナウ川の情勢安定をもってローマ本国に帰還、180年10月22日に凱旋式を挙行した<ref>Herodian's Roman History1:7</ref>。
 
182年、[[元老院 (ローマ)|元老院]]はコンモドゥスに既に与えられている「ゲルマニクス」(Germanicus)の称号に加えて「'''ゲルマニクス・マクシムス'''」(Germanicus Maximus)の称号を与えた。183年、[[アウフィディウス・ウィクトリヌス]]を共同執政官に指名したコンモドゥスは属州[[ダキア]]で蛮族の反乱に対する遠征軍を派遣した。この戦争がいかなる内容と推移を持ったのかは今日記録が残っていないために不明であるが、[[五皇帝の年]]に関わる[[クロディウス・アルビヌス]]と[[ペスケンニウス・ニゲル]]が戦功を挙げたことは分かっている。
 
翌年、今度は属州[[ブリタンニア]]で[[ハドリアヌスの長城]]を巡る蛮族との戦いが起き、立て続けに国境部隊が敗れ去る事件が起きた。コンモドゥスは新司令官として[[ウルピウス・マルケルス]]を派遣した。マルケルスは自らの業績を誇示するべく、厳しい軍規をもって無慈悲に蛮族を打ち倒した<ref>Roman History LXXII</ref>が、厳しすぎる軍規に嫌気が指した兵士たちが軍団幕僚([[レガトゥス]])を指導者にして暴動を起こしてしまい、最終的にマルケルスが[[ガリア]]に追放される事態に発展した。だが反乱は幕僚たちがコンモドゥスに忠誠を誓っていた為、皇帝の命令に従って武装解除された。184年、元老院から「'''ブリタンニクス'''」(Britannicus)の称号を与えられた。
 
コンモドゥスは兵士の罪を許す一方で属州ブリタンニアの全ての軍団幕僚を左遷したが、これはペレンニスによる[[讒言]]と伝えられる。軍は幼い頃から前線を共にした皇帝に敬意を抱いていたが、ペレンニスには激しい憎悪を募らせた。カッシウス・ディオによれば処罰がペレンニスの命によるものと知ったブリタンニア駐屯軍は1500名の有志でローマを訪れ、皇帝に窮状を直訴したという。コンモドゥスは任地を離れて直訴しに訪れた兵士達を叱責したが、訴えを受けてペレンニス処刑を命じ<ref>Roman History LXXII</ref>、マルケルスも皇帝への反逆罪という名目で投獄された。
 
一方、ヘロディアヌスはペレンニスの内通者によって彼が反乱を計画していると知ったコンモドゥス自身の判断によって、ペレンニスが処刑されたと書き残している<ref>Herodian's Roman History1:9</ref>。ローマの出来事を伝え聞いていなかったペレンニスの息子もコンモドゥスにより呼び出され、その途中で暗殺されたとされる<ref>Herodian's Roman History1:9</ref>。コンモドゥスは権力の分散による帝位簒奪の阻止を考え、総督や高官職の兼任や長期在任を禁じることとした<ref>Herodian's Roman History1:9</ref>。
 
=== 国内統治 ===
即位から暫くは長姉の夫[[クラウディス・ポンペイウス]]、妻の父[[ガイウス・ブルトゥス・プラセネエス]]、首都長官[[アウフィディウス・ウィクトリヌス]]、近衛隊長[[セクストゥス・ペレンニス]]ら重臣と協力して統治を行っていたが、次第に貴族達の堕落した生活に毒されていった。特に近衛隊長セクストゥスは優秀な軍人で皇帝をよく補佐したが、同時に堕落した文化を教え込んだ奸臣の一人でもあり、有力貴族の財産を没収するなどの問題行動を起こしていた<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。若き日に宮殿の退廃に葛藤した過去を持つ父帝は「若者は欲望の前に容易に堕落させられる」との警句を残したが<ref>Herodian's Roman History</ref>、まさに自らの子がその言葉通りとなった。とはいえこの時点でコンモドゥスの治世はそれほどに失点のあるものではなく、私生活でも父に教えられた自らを律する習慣がまだ生きていた<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。
 
建築面でも元々神殿に近い立場であったためか父親を弔う[[アウレリウス神殿]]など複数の礼拝所を各地に建設させ、建設者や時期に関する碑銘が削られている[[マルクス・アウレリウスの記念柱]]もコンモドゥスによる建設ではないかとする論者もいる<ref>[http://www.livius.org/ro-rz/rome/rome_column_marcus_aurelius.html Rome: Column of Marcus Aurelius] livius.org</ref>。また治安面では軍の脱走兵がゲルマニアや[[ガリア]]で治安を乱していることが社会問題となっていたが、この問題に徹底した対処を行った<ref>[[ヘロディアヌス]]の記録による。<BR>ヘロディアヌスによれば逃亡兵や脱走兵たちは山賊のような略奪行為を繰り返していたが、マテルヌスという悪辣さで知られた一人の頭目によって軍としての組織だった行動すら起こすようになっていた。<BR>マテルヌス軍は各地の都市を襲撃しては、理由に関係なく投獄されていた罪人を解き放って自軍を肥大化させていった。<BR>マテルヌス軍がイベリアにまで略奪の手を広げていることを報告されたコンモドゥスは激怒して、イベリアの総督達に討伐に関する厳命を下した。<BR>マテルヌスは帝位を望んでいたものの、ローマ軍の正規部隊に戦いでは敵わず、また民衆の大多数はコモンドゥス帝を支持していることを理解していた。<BR>従って反乱兵は皇帝を暗殺することで簒奪を成功させようと目論み、帝都に潜入して近衛隊の衣服を入手すると祝祭に出席している所を狙う計画を立てた。<BR>しかしマテルヌスの計画に不満を持った反乱兵の一部が寝返り、彼らは祝祭に辿り着く前に捕らえられて首を刎ねられたという</ref>。コンモドゥスの治世が大きく狂い始めるのは家庭内の不和によるところが大きかった。
 
=== 暗殺未遂事件 ===
{{Main|{{仮リンク|アンニア・アウレリア・ガレリア・ルキッラ|en|Lucilla|label=ルキッラ}}}}
[[File:Mars Venus Louvre Ma1009.jpg|170px|thumb|「軍神マルスと女神ウェヌス」([[ルーヴル美術館]])<BR>この立像における女神ウェヌスが{{仮リンク|アンニア・アウレリア・ガレリア・ルキッラ|en|Lucilla|label=ルキッラ}}を模して作ったものと言われている。]]
コンモドゥスには年の離れた4人の姉がいたが、それぞれが大貴族の妻として政略結婚を行って王朝を支えていた。その中でも最年長の長女ルキッラは野心高く、また父の共同皇帝だった前夫[[ルキウス・ウェルス]]の死によってアウグスタの称号を与えられ、皇帝たる弟にすら一目置かれていた<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。彼女は自らの後夫[[クラウディス・ポンペイウス]]を弟の側近にしようとしたが、コンモドゥスは年の近い妻のクリスピナの意見を聞き、妻の親族を重用した。
 
ある時、劇場を訪れたルキッラに対して、貴族達は后妃であるクリスピナに皇帝の隣席を譲るように促した<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。姉を隣席させていたのは皇帝の姉に対する配慮であったが、習慣から言えば妻を隣に置くのが儀礼であったからである。これに屈辱を感じたルキッラは自らの地位を不安に思い、弟の暗殺と帝位簒奪を計画する<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。帝位に推されたポンペイウス自身は妻をむしろ説得したとされるが、ルキッラは自らの愛人であった従兄弟のマルクス・アムディウスとクラウディウス・アッピウスに命じて、劇場を訪れたコンモドゥスを暗殺しようとした([[182年]])<ref>Roman History LXXII</ref>。しかし実行犯が正当化のためにわざわざ「元老院の命により」と叫んでから飛びかかったため、あっさり護衛兵が叩き伏せてしまった<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。
 
コンモドゥスは暗殺者2人をただちに処刑したが、姉は殺すことができず[[カプリ島]]への流刑とした<ref>Roman History LXXII</ref>。周囲の忠誠を疑ったコンモドゥスによる粛清は厳しく、無関係の者も含めて大勢の貴族や将軍が処刑された。クラウディス・ポンペイウスは自身は無関係であったため許されたが、政界での立場を失い引退に追い込まれた。自らも元老院議員であったカッシウス・ディオは触れていないが、在野の歴史家であった[[ヘロディアヌス]]はこの出来事でコンモドゥスが元老院を疑うようになったと評している<ref>Herodian's Roman History1:8</ref>。
 
=== 暴政の開始 ===
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しかし、この近衛隊長官就任がクレアンデルの権力の頂点であった。[[190年]]にローマで穀物危機が発生した際、帝国は民衆に十分な食料を供給できなかった<ref>Roman History LXXII</ref>。結果、それまでコンモドゥスを支持してきた民衆が各地で暴動を起こすようになった。クレアンデルの責務は皇帝の護衛であって食糧問題は直接関係なかったが、物資長官[[パピリス・ディオニュシオス]]は罪をクレアンデルに被せた<ref>Roman History LXXII</ref>。民衆の怒りの矛先はクレアンデルへと向かい、6月末に民衆はクレアンデルの処罰をコンモドゥスに求めるべく円形闘技場に集まった。巫女に先導される民衆は口々にコンモドゥスを讃える一方、クレアンデルにはあらん限りの罵倒を叫んで行進した<ref>Roman History LXXII</ref>。あわてたクレアンデルは近衛兵部隊を差し向けて民衆を虐殺したが、民衆の側も激しい抵抗を見せ<ref>Herodian's Roman History1:13</ref>、また首都長官としてコンモドゥスの側近に昇格していた[[ペルティナクス]]が[[首都護衛隊]]{{enlink|Vigiles|a=on}}を動員して暴動を鎮静化させようとした。
 
ローマ近郊の離宮に滞在していたコンモドゥスはクレアンデルからの報告のみを信じていたため、重臣たちが動乱について報告しても信用しなかったと言われている。しかし姉ファディラの説得もあり、悩んだものの重臣たちの要請を受けてクレアンデルの処断を命じた。ローマから逃げ込んできたクレアンデルはコンモドゥスによって槍で頭を串刺しにされ、暴徒と化した民衆の前に投げ出された。民衆は喜び、クレアンデルの遺体に罵声を浴びせたのち、下水に投げ込んだ<ref>Herodian's Roman History1:13</ref>。これで民衆の怒りは収まったが、重臣たちは知らなかったとはいえクレアンデルに力を与えていたコンモドゥスにも怒りが向けられることを危惧した。
 
だがコンモドゥスがローマの民衆の前に現れると、民衆は歓呼の声で皇帝への讃辞を叫び、むしろ宮殿に向かう皇帝をクレアンデルに与していた近衛兵部隊に代わって護衛したという<ref>Herodian's Roman History1:13</ref>。
 
==== 親政再開 ====
[[File:Commodus Musei Capitolini MC1120.jpg|220px|thumb|right|「'''ヘラクレスの化身たるコンモドゥス'''」([[イタリア]]、エスクィリーノ美術館)]]
親政再開後、コンモドゥスはクレアンデルに連座させる形でパピリス・ディオニュシオスの処刑も命じたのを皮切りに、クレアンデルの同僚であった近衛隊長ユリウス・ユリアヌス、従姉妹のファウスティナと義理の弟マメルティヌスなどの要人を片端から処刑していった。そしてほとんどの要人を殺し尽くした後、自らの名を'''ルキウス・アエリウス・アウレリウス・コンモドゥス・アウグストゥス・ヘラクレス・ロムルス・エクスペラトリス・アマゾニウス・インウィクトクス・フェリクス・ピウス'''と改名した<ref>Roman History LXXII</ref>。宮殿に戻ったコンモドゥスは宮殿から役人や重臣を殆ど追い出してしまい、娯楽や趣味の剣術に没頭する日々を送った。周りに残された臣下達は咎めるどころか、皇帝自身が武勇に長けることを望ましいと賛美するものばかりだった<ref>Herodian's Roman History1:12</ref>。
 
またコンモドゥスはその改名が示すように自身がヘラクレスの化身であると主張するようになった。こうした動きはコンモドゥスの政治的な作戦と見る向きことであるとする意見が強い。権威として神を利用することはローマにおいて珍しい手段ではなく、ヘラクレスを選択したことも[[ギリシャ神話]]の創造主[[ゼウス]]の子であることから[[ローマ神話]]の主神[[ユピテル]]の子と主張できるためである。しかし理由はどうあれコンモドゥスの行動は聊かに常軌を逸しており、遂には皇帝のトーガではなく狼の毛皮を身に纏うようになった。[[File:Triton left Musei Capitolini MC1119.jpg|200px|thumb|left|ヘラクレス・コンモドゥス像に従う二人の青年像。[[獣人]]の姿をしており、恐らくは[[ケンタウロス]]か[[トリートーン]]を模していると考えられている。]]手には伝承でヘラクレスが用いたとされる棍棒を模したメイスを持ち、神話の戦いを模すと称しては闘技場で戦士や獣を打ち殺したという<ref>Herodian's Roman History1:15</ref><ref>Roman History LXXII</ref>。
 
闘技場では剣闘士のような蛮勇を見せるというよりは、獣を弓矢で射抜くなど技巧を披露するような方法を好んだ。腕前そのものは本人が誇るように優れたものであり、弓術ではパルティア人に勝り、槍ではムーア人に勝ったという。投槍で数十頭の豹を一度も外さずに射殺す、全速力で走っている駝鳥の頭を弓矢で正確に打ち抜くなど、常人離れした芸当は確かに民衆の少なくない数を畏怖させた。しかし同時にこれ以上にない格別の血筋に生まれた高貴なローマ人が、このような野蛮な勇気に没頭する様子に悲しむ者も多かった<ref>Herodian's Roman History1:15</ref>。
 
それ知ってか知らずか、コンモドゥスは[[ロードス島の巨像]]を顔の部分だけを自らの顔に作り直させた上で、[[コロッセウム]]に運ばせたと伝えられる。巨大なコンモドゥスの銅像には「百の兵を12度打ち倒せし左利きの戦士」と書かれていた<ref>Roman History LXXII</ref>。こうした剣闘披露についてはカッシウス・ディオも記録しており、元老院議員に向かって切り殺した獣の首を脅すように掲げたと伝えている。
 
{{quotation|ある時、陛下は切り落とした獣の首を貴賓席に座る我々の方へ笑いながら差し向けてきた。その行動は「余の気を損ねれば、お前達もこうなる」という言外の意味を含んでいることは明らかだった。しかし我々は恐怖よりも、その芝居がかった行動が滑稽に思える気持ちの方が強く、思わず笑いが零れそうになった。<BR><BR>我々は慌てて月桂樹の葉を口に噛んで笑いを堪えねばならなかった。もし笑えば本当にあの獣の如く殺されてしまうだろう<ref>Roman History LXXII</ref>。}}
 
191年、落雷による大火災によってローマ中心部の半数以上が焼け落ちる惨事が起きる<ref>Herodian's Roman History1:14</ref>。これを契機にしてコンモドゥスはローマの大改造計画を発表、その際に自らを「ヘラクレスの化身」に続いて「'''新たなる[[ロームルス|ロムルス]]'''」であると宣言した。彼は再建予定地の全てに自らの名を冠した地名を名づけ、各月の呼び名を自らの全名に由来した物に変更し、帝国軍は「'''コモディアエ'''」という名に変更され、海軍のエジプト方面艦隊も「'''アレクサンドリア・コモディアーナ・トガタ'''」と名を改められた。
 
コンモドゥスの専制君主としての振る舞いは遂には元老院すら「'''コモディアス・フォロム・セナートゥス'''」へ改めるように強制するに至った。更に全ローマ人は家名として「'''コモディアヌス'''」を用いることを命じられた。この一連の布告を出した日は「'''コモディアヌスの祝祭'''」と名付けられた<ref>Roman History LXXII</ref>。
[[File:Attic3DetWiki.jpg|200px|thumb|コンモドゥスに対する「[[ダムナティオ・メモリアエ]]」の証拠として残る「削られたコンモドゥスのレリーフ」。コンスタンティヌスの凱旋門に使用されている装飾の一部はアウレリウス帝の凱旋門から剥ぎ取ったものであり、結果的にこうした形で後世へと残った。]]
 
==== 暗殺 ====
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しかし、彼が新たな年を迎えることにはなかった。
 
ヘロディアヌスによれば、コンモドゥスは新年を前に近衛隊長官ラエトゥス、それにほとんどの元老院議員を処刑する計画を立てたとされる<ref>Herodian's Roman History1:17</ref>。そのリストには些細な理由から愛妾であったマルキアという女性も記されていたが、少年の男娼と寝室で寝ている間にそのリストをマルキア本人に見られてしまった。驚愕した彼女はただちに書類に載っていた要人たちを集め、重臣たちは皇帝の側近ペルティナクスを擁立する廃立計画を決断した<ref>Roman History LXXII</ref>。
 
同じく暴君として暗殺された[[カリグラ]]や[[ネロ]]と異なり、腕の立つコンモドゥスが相手では近衛兵による暗殺は難しかった。そこで毒殺が試みられ、入浴後に飲酒する習慣のあったコンモドゥスにマルキアが何時ものようにグラスに葡萄酒を注ぐ際、一緒に毒薬を混ぜ込んだ。警戒せずにコンモドゥスがワインを飲む干す様子を見届けると、マルキアは使用人達に人払いを命じて、最後の時を迎える皇帝をそっとしておこうとした。コンモドゥスはしばらくは平然としていたが、突然に毒に気づいてワインを吐き出した。彼は食事の前に必ず解毒剤を一緒に飲むようにしていたため、致命的には至らなかったのである<ref>Herodian's Roman History1:17</ref>。
 
慌てたマルキアや重臣たちは、控えさせていた護衛の剣闘士ナルキッソスを差し向けた。コンモドゥスも咄嗟ながらかなりの抵抗を見せたとされるが、毒がまだ体に回っていたために十分な力が入らず、そのまま絞殺されて31歳の生涯を閉じた<ref>Roman History LXXII</ref><ref>Herodian's Roman History1:17</ref>。
 
死後に元老院は最大の刑罰である「[[ダムナティオ・メモリアエ]]」の適用を宣言したが、これは元老院から大変に憎まれていたことを象徴している。ローマに飾られていたヘラクレス・コンモドゥス像の多くは元老院によって破壊され、現在は1体が残るのみである。またコンモドゥスがローマ中心部に建設したアウレリウス神殿(ハドリアヌス神殿に隣接していた)も破壊されたほか、のちに[[セプティミウス・セウェルス|セウェルス]]帝がコンモドゥスの名誉を回復して神として神殿に祀るまで、その存在は忌避され続けた。
 
== 略年表 ==
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== 評価 ==
戦争よりも学問を得意としたにもかかわらず、アウレリアス帝の統治した数十年間は間断なく戦争が続き、民が疲弊した時代だった。それに対してコンモドゥスは、父から受け継いだ嗜好もあって戦争を極力避けようとするところに特徴があり、対外的には戦争のない平和な時代が続いた。しかしその治世は、若さ故の不安定さと帝位を巡る政治闘争の激化で民が苦しむことになった。
 
===内政===
対外政策では、ドナウ川戦線([[マルコマンニ戦争]])で[[ゲルマニア]]や[[サルマティア]]の諸族と講和を結んだことで、セウェルス帝以降に表面化する軍事費の膨大化を抑制し、また人事面での適切な判断でブリタンニアとダキアでの蛮族の侵入を大過なく乗り切ることができた。治世後期には疫病や火事による被害を受けたが、後述の理由により民衆の支持を保ち続け、大きな暴動に発展することも無かった。総じてコンモドゥスに対する批判は(発狂後を除けば)治世そのものというより、彼の私生活における放蕩と政務の委任についてのもので占められている。
 
そしてその放蕩な生活も、晩年の錯乱以外は必ずしも当時のローマの貴族文化の範囲を外れたものではなかった。コンモドゥス死後の継承者争い(「[[五皇帝の年]]」)を制した[[セプティミウス・セウェルス]]は、かつての皇帝に対する元老院の弾劾を全て差し戻させる決定を下したことで知られている<ref>Roman History LXXVI</ref>。その際元老院の反発に対してセウェルスは元老院にコンモドゥスを非難できる高潔な人間がどれだけ居るのかと批判している。セウェルスは「コンモドゥスが野獣を殺したのが恥だというなら、執政官を務めた議員が先日オスティア港で獣姿の娼婦と抱き合っていたのは恥ではないのかね?」と元老議員達を辛辣に皮肉ったという<ref>Roman History LXXVI</ref>。
 
指導力についてはドナウ川戦線時代はともかく、ローマ本国に戻ってからは経験不足もあり父の残した重臣に統治を委任した。[[トラヤヌス]]、[[ハドリアヌス]]、[[アントニヌス・ピウス]]、および[[マルクス・アウレリウス]]といった先帝たちと違って、当初コンモドゥスは自らが皇帝として強権を振るうことをあまり望んでいなかった。その過程でクレアンデルなどの奸臣を重用したことは治世に悪影響を与えたが、父の重臣達や近衛長官ペレンニス、ペルティナクスなど有力な人物も要職に就けており、一概に否定だけはできない。ただ、自らがまず第一の人材であった祖先達に比べ、個人としてあまり優秀でなかったことは事実といえよう。
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===元老院との対立===
元老院との激しい対立や独裁、また後の悪評とは裏腹に、コンモドゥスは治世の最末期まで民衆と軍からは人気のある皇帝であり続けた。コンモドゥスは貧民に対する食事の提供など大規模な慈善活動を行い、また盛大な剣闘士大会や馬競争を開催して民衆に娯楽を提供した。対外的な平和や軍備削減の成功も相まって、栄光の見返りを存分に与えてくれるコンモドゥスを民衆は敬愛していたのである。加えて軍も幼い時から父アウレリアスと前線で過ごしたコンモドゥスに敬意を抱き、ブリタンニア内乱の際に皇帝に推された司令官は、コンモドゥスへの忠誠を誓ってこれを拒否している。
 
公共事業の資金はほとんどが元老院階層など上流階層からの徴税で賄われ、当然ながら元老院との対立に拍車をかけた。しかし当のコンモドゥスも民衆と軍の支持を背景に元老院を嘲笑しており、伝統的な言い回しである「'''元老院'''及びローマ市民」('''SPQR''')という布告をわざと「ローマ市民及び元老院」('''PSQR''')と逆さにして公文書を出していた痕跡が残っている。
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また歴史家たちの中で唯一同時代人であった元老院議員[[カッシウス・ディオ]]は、コンモドゥスの治世を父と比べて欠陥が多かったと評しつつも同情的な評価も下している。
{{quotation|私はコンモドゥスが狂人であったとは思わない。むしろ人生で実際に会った人々の中で最も誠実な人間の一人だった。彼の純朴さはしかし、時に周囲の奸臣たちの影響下に自分を置く原因となった。(中略)…彼が放蕩な生活におぼれ始めたのは、彼がかつて清廉な青年であったことを知っている人間なら、こうした奸臣たちから堕落させられた結果なのは理解できるだろう。…だが残念ながら、彼の堕落は何時しか性根にまで及んでしまった<ref>Roman History LXXII</ref>。}}
 
[[ヘロディアヌス]]はコンモドゥス伝の末尾において、以下のような評伝を残している。
 
{{quotation|コンモドゥスは疑いなく全てのローマ皇帝の中でもっとも身体的な才覚に恵まれた人物であった。その美しさや武勇は彼自身の怠惰さで辱められなければ、賞賛されてしかるべきものであったろう<ref>Herodian's Roman History1:17</ref>}}
 
== 称号 ==