「ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m Taivo によってCommonsから削除された Marcinkus.jpg を除去。理由: Copyright violation: commons::Commons:Deletion_requests/File:Marcinkus.jpg.
m Wikipedia:表記ガイドに準拠、ほか
30行目:
}}
 
'''ヨハネ・パウロ1世'''([[ラテン語{{lang-la-short|羅]]:IoannesIoannes Paulus PP. I}}[[イタリア語{{lang-it-short|伊]]:GiovanniGiovanni Paolo I}}、[[1912年]][[10月17日]] - [[1978年]][[9月28日]])は[[ローマ教皇]](在位:1978: 1978年[[8月26日]] - 1978年9月28日)、[[カトリック教会]]の[[司祭]]。教皇名として初めて「ヨハネ・パウロ」という複合名を採用。[[宗教事業協会]]の改革を表明した一方、在位わずか33日の急逝には暗殺説が根強い。
 
== 生涯 ==
37行目:
 
===聖職者===
[[1923年]]にフェルトレの神学校に入ったが、後にベッルーノ教区の[[神学校]]に移って学んだ。このころには[[イエズス会]]に入会しようとするが、神学校のジョスエ・カタロッシ (Giosuè Cattarossi) 司教には、入会を認められなかった。[[1935年]][[7月7日]]にベッルーノの聖ピエトロ教会で司祭に[[叙階]]された。
 
[[File:Albino Luciani, 1964.jpg|thumb|200px|ヴィットリオ・ヴェネト司教時代(1964年)]]
75行目:
 
=====避妊の解放=====
ヨハネ・パウロ1世は、避妊についての禁令を解くつもりでもあった。9月23日日曜日、ローマ司教の職権によりサン・ピエトロ大聖堂を受け継いだヨハネ・パウロ1世は、[[共産主義]]の市長と握手を交わし、ミサの後、教会の真の宝である貧しい人々のためには尽力するが、悪人に対しては法王教皇の教権を憚る事無ことなく行使すると宣言した。
 
アメリカの幾つかの[[プロテスタント]]教会とは既に接触を持っていた。法王教皇に選出される直前、アメリカ議会代表団を歓迎し、避妊について女性の排卵期について語った後「どうして妊娠しない期間を、24日から28日にすると罪になるのか、私には理解できません」と述べた。そして、パウロ6世による旧来の産児制限反対を再確認する回勅『'''人間の生命について〔フマナエ・ウィタエ〕'''』は誤りだったと口にしていた。
 
「神からの贈り物である子供が出来ないようにする行為は罪である」とするそれまでの主流派に反して、「本当に子供を望んでいる女性のみが妊娠すべきである」との'''避妊擁護'''の考えを持っていた。<ref>『キリスト教と聖書の陰謀』〔原題:THE: THE FIRST CHRISTIANS〕</ref>
 
=====バチカン銀行の改革=====