「池田利隆」の版間の差分

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慶長5年([[1600年]])9月の[[関ヶ原の戦い]]に父と共に東軍方で参戦する。慶長8年([[1603年]])2月、異母弟の[[池田忠継|忠継]]が[[備前国|備前]][[岡山藩]]主に任じられると、幼年の忠継<ref>このとき忠継は5歳だった</ref>に代わって執政代行として3月に岡山城に入った。利隆は岡山の実質的な領主として藩政を担当し、慶長9年([[1604年]])には慶長検地と呼ばれる領内[[検地]]を実施した<ref>この慶長検地で私徳(小作料)が否定されて江戸時代の近代的本百姓体制が整備された</ref>。また[[兵農分離]]を行ない、前岡山領主であった[[宇喜多秀家]]や[[小早川秀秋]]らの夫役の廃止など、江戸期における近代的体制を確立した。
 
慶長10年([[1605年]])、[[従四位]]下[[侍従]]に叙任され右[[衛門府|衛門]]督を兼任した(このときは[[豊臣氏|豊臣姓]])<ref>村川前掲書、38頁。</ref>。同年に[[徳川秀忠]]の養女・[[福正院|鶴姫]]([[榊原康政]]の娘)を正室に迎えて[[江戸幕府|幕府]]との関係を深めた。慶長12年([[1607年]])6月2日、[[武蔵国司|武蔵守]]に転任して[[松平姓]]を賜り'''松平武蔵守利隆'''と名乗った<ref>村川前掲書、93頁・103頁。</ref>。慶長18年([[1613年]])1月、父の輝政が死去したため、6月に[[家督]]を継いだ。その際に父輝政の後室・[[督姫|良正院]]の化粧料である西播磨三郡([[宍粟郡]]・[[佐用郡]]・[[赤穂郡]])10万石を弟の忠継に分与し、姫路藩の所領は42万石となった<ref>これは幕府が[[池田氏]]の勢力を弱めるために領地を分与させたといわれる</ref>。
 
[[慶長]]19年([[1614年]])からの[[大坂の陣]]では[[徳川氏|徳川]]方に与し<ref>利隆は開戦前に[[豊臣秀頼]]から書状と兼光の刀を贈られて味方に誘われたが、拒絶して刀を返上し、書状は[[京都所司代]]の[[板倉勝重]]に差し出して恭順を誓った。しかし勝重は、書状に開封されたあとがあるのを見て「関東に対する二心がなければ秀頼からの書状は密封したまま差し出すはず。場合によっては返り忠するつもりであったのか」と詰問され、使者は懸命に利隆の潔白を訴えたという</ref>、大坂冬の陣の緒戦の尼崎合戦に参加した<ref>この尼崎合戦で、[[片桐且元]]への助勢が消極的だったために家康の怒りを招いたが、利隆は要衝の尼崎を堅守するためだったとして懸命に弁明して事無きを得た(『[[埋礼水]]』)</ref>。