「シャルル (ブルゴーニュ公)」の版間の差分

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[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ善良公]]と、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]の娘[[イザベル・ド・ポルテュガル|イザベル]]の間の三男として生まれる。兄2人は夭逝して唯一残った男子であったため、父フィリップが[[1467年]]に死去すると公位を継承した。翌[[1468年]]に[[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]の妹[[マーガレット・オブ・ヨーク|マーガレット]](マルグリット)を3番目の妻として迎えた。
 
[[フランス王国]]の統一を進めていた[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]に対抗する国内最大の君公で、ブルゴーニュ公の本領、[[ブルゴーニュ伯]]領([[フランシュ=コンテ地域圏|フランシュ=コンテ]])の他に[[リエージュ司教領]]の支配権を獲得し、[[ブルゴーニュ領ネーデルラント|ネーデルラント]]を支配した。豪奢な宮廷生活を営みつつ、国内の独立貴族を連合してルイ11世に対抗する〈[[公益同盟]]〉を結成して、3度戦いその都度王軍を圧倒した。[[1473年]]には周囲の[[ロレーヌ公国|ロレーヌ]]・[[ピカルディ]]を攻略し、要塞を引き渡させ、自由通行を認めさせた。しかし[[1476年]]、フランス王に雇われた[[スイス傭兵]]に[[グランソン、モの戦い|グンソン]]、[[ムルテンの戦い|ムルテン]]で破られ、さらに[[ロレーヌ公]][[ルネ2世 (ロレーヌ公)|ルネ2世]]と交戦中に[[ナンシーの戦い]]で戦死した。娘の[[マリー・ド・ブルゴーニュ|マリー]]が後の[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]と結婚したため、ネーデルラントは[[ハプスブルク家]]領となった。
 
シャルルは歴代のブルゴーニュ公が追求した「反フランス」と「[[マース川]]、[[モーゼル川]]の間にある全領域を手に入れる」という目的を継承し、フランスを無力にするために[[スペイン]]と[[ナポリ王国|ナポリ]]の[[トラスタマラ家]]と同盟する。[[オリヴィエ・ド・ラ・マルシュ]]{{enlink|Olivier de la Marche}}によると、シャルル自身の究極の目的は「その他の君主たちのリーダーとなって、不信者征討に出発すること」という漠然としたものであった。シャルルの野心は、ハプスブルク家を乗っ取り、[[神聖ローマ皇帝]]に即位することだったと言われている。その思いは彼の名を受け継いだ曾孫[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]によって実現することになる。