「オーロビンド・ゴーシュ」の版間の差分

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主任検察官のアードレイ・ノートンは、裁判の間、装填した拳銃を彼の書類カバンの上に陳列した。オーロビンドを擁護する弁論は、チッタランジャン・ダスによって行われた。のちに「1908年アリープル爆弾裁判」の名づけられたこの裁判は、1年の間続き、結果、オーロビンドは無罪となった。
 
その後、オーロビンドは2冊の新しい週刊誌の出版を始めた。1つは『カルマヨーギン』と題され英語で書かれており、もう1つは『ダルマ』と題されベンガル語によるものであった。しかしながら、[[ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド (第4代ミントー伯爵)|ミントー卿]]が彼を批判する内容の記事を執筆しそれが世に出たため、英国政府は彼のナショナリズム活動を見逃すわけにはいかなくなった。
 
インド警察が彼を逮捕するために再び動いたため、彼はインドのフランス植民地地域に避難する。1910年4月4日になりようやく、他のナショナリストらと共に、[[ポンディシェリ]]に隠れ家を見出すことができた。