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[[1577年]](天正5年)に本拠地の雑賀が織田軍の侵攻を受けると、紀ノ川北岸にあった鈴木氏の所領は真っ先に攻撃を受けて占領され、紀ノ川南岸での戦いも劣勢であったために、鈴木氏は他の有力者たちとともに[[織田氏]]への服属を誓って降伏した。翌年には織田氏への服属を反故にすると、再び本願寺に荷担した。[[1580年]](天正8年)、[[顕如]]が最終的に抗戦を断念に、[[石山本願寺]]を退去して雑賀の鷺森に移ると、鈴木氏もこれに従い、[[織田氏]]に服属する。これ以降、力を失った本願寺に代わって織田氏に服属しようとする鈴木氏と、それに反対する反織田派との間で争いが起こり、鈴木孫一は[[1582年]](天正10年)に[[土橋氏]]の当主を殺害、雑賀衆の主導権を握った。同年に[[本能寺の変]]が起こって信長が死んだため、後ろ盾を失った孫一は雑賀を逃亡の後、[[豊臣秀吉]]を頼る。[[小牧・長久手の戦い]]から[[文禄・慶長の役]]にいたる秀吉の一連の戦役に参加した[[豊臣氏|豊臣家]]の鉄砲頭の中に、孫一を含め数人の鈴木姓の名が見える。この間、[[1585年]](天正13年)に秀吉は紀伊征伐を行って雑賀衆を滅ぼした。先述した鈴木佐太夫はこのとき殺されたということになっている。
 
孫一が歴史から名を消した後、豊臣家の鉄砲頭として孫一の兄弟とも子ともいわれる[[鈴木重朝|鈴木孫三郎重朝]]の活躍が見られるようになる。重朝は[[1600年]](慶長5年)に[[関ヶ原の戦い]]の前哨戦である[[伏見城の戦い|伏見城の攻略戦]]に[[石田三成]]方として参戦。城将の[[鳥居元忠]]を討ち取る戦功を挙げた。関ヶ原で西軍が敗れたために所領を没収されてするとしたものの、[[1606年]](慶長11年)になって元忠の主君である[[徳川家康]]に召抱えられて[[徳川氏]]に仕える。重朝はのちに家康の末子[[徳川頼房|頼房]]に附属されて[[水戸藩]]に移り、子の[[鈴木重次|重次]]のとき後継ぎとして主君頼房の子を[[養子縁組|養子]]に迎えて[[鈴木重義 (雑賀鈴木家)|重義]]と名乗らせ、鈴木家は[[水戸藩]]の重臣として続いた。のちに水戸藩鈴木家は名字を雑賀と改め、代々の当主は孫市を通称としたという。
 
=== 系図 ===