「パリの解放」の版間の差分

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ジャック・シャバン=デルマスの項目を参照されたし。
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午後1時10分、オテル・ムーリスの玄関にフランス軍のカルシェ(Henri Karcher)中尉ら4人が乗り込んできた。正規軍と遭遇したコルティッツはこれを降伏の機会と考え、[[参謀]]を通じてカルシェ中尉に自分の部屋に来るよう伝えた。カルシェ中尉は司令官室に乗り込むと緊張のあまり「ドイツ語を話せるか?」とドイツ語で叫んだ。「貴官よりいくらか上手だと思う」と答えたコルティッツは降伏する旨を伝え、司令部員は武装解除した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、288-289p</ref>。コルティッツらはルクレールが司令部を置いたパリ警視庁に運ばれ、降伏文書を提示された。しかしその文書にあったルクレールの肩書きは「フランス共和国臨時政府パリ軍政司令官・第2機甲師団長」であり、「連合国軍」ではなかった。するとその部屋にFFI[[イル=ド=フランス地域圏]]隊長の[[アンリ・ロル=タンギー]]([[:fr:Henri Rol-Tanguy|fr]])大佐(通称ロル大佐)とFFIに属する軍事行動委員会([[:fr:COMAC (Résistance)|COMAC]])共産党代表[[モーリス・クリーゲル=ヴァリモン]]([[:fr:Maurice Kriegel-Valrimont|fr]])が入室し、ロル大佐にも降伏文書調印資格があると主張し、ルクレールと交渉し始めた。ルクレールと二人の交渉はしばらく続いたが、結局ロル大佐の調印参加が認められ、午後3時30分に降伏文書は調印された<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、289-291p</ref>。コルティッツが降伏命令を各部隊に発出したことで、パリ市内のドイツ軍部隊は午後7時35分までにはほとんど降伏し、[[ブローニュの森]]にいる2600人の部隊を残すのみとなった。
 
ドイツ軍降伏を知ったパリ市民は占領期間の有力者や[[フランス民兵団]]やヴィシー政府やドイツへの「[[コラボラシオン]](協力者)」狩りに乗りだし、次々に処刑・殺害を行っていった。またドイツ軍兵士の愛人であったりするなど、ドイツに近しいとみられたフランス人女性は髪を刈られ、裸にハーケンクロイツを書かれる等の暴行を受けてさらし者にされた後、殺害された。<ref>被害に遭った女性のすべてがドイツ人と性的関係を持っていたわけではない(平稲晶子「丸刈りにされた女たち」『ヨーロッパ研究』No.8、東京大学ドイツ・ヨーロッパ研究センター、2009年、pp.25 - 41[http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_8_Hirase.pdf])。</ref>。誤認されて被害に遭う市民も多数おり、争乱はしばらく治まらなかった。
 
=== 解放のパレード ===