「岩宿遺跡」の版間の差分

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== 概要 ==
岩宿遺跡は、[[赤城山]]の南東、[[渡良瀬川]]右岸地域の小残丘に立地しており、丘陵の北部は「稲荷山」、南部は「山寺山」および「金比羅山」と呼称される。稲荷山と山寺山の境をなす低い鞍部には町道が通っていたが、相沢忠洋によれば、めて[[関東ローム層|ローム層]]中で[[打製石器]]を発見したのは、この道路の切通においてであった。相沢は当時、[[納豆]]の[[行商]]をおこないながら熱心に[[考古学]]研究にいそしんでいた。
 
[[1949年]](昭和24年)、[[杉原荘介]]の主導による[[明治大学]]の[[発掘調査]]で、切通しの北側がA区、南側がB区と命名され、A区において上下2層の石器文化層が確認された。